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故郷の山に向かひて 言ふこと・・・あり

  私の生まれ在所は島根県邑智郡日貫村(おおちぐんひぬいむら)といった。今は邑南町(おおなんちょう)の一部である。この新町名が私にはしっくり来ない。先の平成の大合併ではこういう類の没主体的な自治体名が全国で大量に生産された。実に悲しいことである。なんとか郡の南の方・・とか、有名な都市の東隣の町・・とか、ひどいのは四国の真ん中辺などなど、このような安直な命名では地域の先人に対して申し訳が立たないというものである。
  そもそも一人の人間にとって、生まれ在所の市町村は母の胎ともいうべき出自の大源である。従って、その命名にあたっては元号名を制定するが如き厳粛さと深い考証をもって為されよかしと思うのだ。
  本来「地名」や「山名」の多くは地域社会の風土と歴史に根差していた。たとえば、わが邑智郡や日貫村などという地名の由来を探れば古くからの由緒に訪ね当たるのである。生まれ落ちた地域社会にまつわるこれらの由緒は、一人の人間のアイデンテイテイの一部をなす。然様なればこそ地名は徒や疎かに扱ってはならない。

  深田久弥は名著「日本百名山」の中で、いくつかの山の名前についての、現代人の疎かな扱いを嘆いている。たとえば飛騨山脈(北アルプスと呼ぶ輩がいる)の白馬岳。この山名は、春、山腹に代掻き馬の雪形が現れるのを見て、麓の百姓が田起こし作業の時節を知ったことに由来する。すなわち代馬(しろうま)、これが転じての白馬なのだから、その読みは「しろうま」であって「はくば」でよいはずがない。それが今や、ふもとの地名まで「白馬(はくば)町」である。「観光で訪れるお嬢さんたちの受けを狙ったのだろう・・」とは深田先生の歎息である。

  また赤石山脈(南アルプスと呼ぶ輩がいる)の北部に白峰三山という連峰がある。三山いずれも三千メートルを超える名峰であるが、その名がひどい。一番北が北岳で、間にあるのが間ノ岳(あいのたけ)、このぶんでいくと南の農鳥岳(のとりだけ)は危うく南岳と命名されてしまうところであった。
  その難を免れ得たのは、この山だけが甲府盆地からよく見え、昔から里人の心の中に息づいて在ったからであろう。他の二山は前山にじゃまされて片鱗しか見えない。そのぶん、里人にとっての存在感は薄く、無名の時代が長かったのだろう。盆地からよく見えるその峰には、春、その東斜面に白鳥の形の残雪が現れる。それが農鳥岳の名の由来だという。待て待て、この話はちょっとおかしいぞ、と山好き人や、甲州人なら気づくだろう。実は盆地から一番よく見えているのは間ノ岳であって、農鳥岳は稜線の片鱗が見える程度なのだ。然り、明治期までは、農鳥岳とは現在の間の岳のことだったのだそうだ。

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 (↑:甲府盆地から夜叉人峠越しに聳える間ノ岳。左の農鳥岳、右の北岳は少ししか見えない)

 このように、地名山名は地域社会、人間社会との長いかかわりの歴史の中から生れ出たものであり、人里から遠く離れた、人間の暮らしにかかわりのないところには由緒正しい地名も山名も生ずるはずはなく、畢竟、現代になって地理学の要請からやっつけ仕事の命名がなされた場合が少なくないのであろう。

  話を旧日貫村に戻そう。
  日貫村は山あいのすり鉢の底のような狭い盆地である。生家は盆地の北側斜面にあって、縁側から南をみると、村の中心部のささやかな街並みや小学校、お寺、城山などが眺められ、それらの東よりの一番奥に、盆地周囲中の最高峰が美しく気高く聳えている。なにしろすり鉢の底から見上げるのだから、さほどの標高もないのに、まさに「聳えている」のである。私は、この山が盆地に向かって放つオーラを感じながら少年期をすごした。長じて後も、この山を仰ぐときはいつも、「故郷の山に向かひて言ふことなし。故郷の山はありがたきかな・・」という啄木の歌が心に浮かぶ。

  ところが、なんということであろう。実はこの山には名前がないのである。物心ついた頃から、この山の名がとても気になっていて、多くの人に尋ねた。父や村の長老や和尚さんや、麓の集落(鉄穴が原、大鹿山、東屋)から通う級友たちにも何度も尋ねたが、知る者はなかった。「栃山(とちやま)というのではないか」という者があったが、それはこの無名峰と城山の中間にある山のことだ。
  若いころ登山を始めたので、国土地理院発行の地図に馴染むようになった。当然、日貫やこの山域を含む地図も改定の折に時々入手した。そして都度この無名峰を検証すると案の定、山名は記されていない。日貫盆地を囲む山々の中では抜きん出て高いのに、である。この峰の、密に混んだ同心円状の等高線を中心に向けてたどると、その頂上は海抜800~820mと読める。なんだ800かというなかれ。盆地の底は200mに満たないから比高は600m以上である。なんだ600かよというなかれ。日貫に来て、実際に仰ぎ見ればその気高さに気づくはずだ。
  標高2位の松原山716m、をはじめ、烏子山654m、横宇津山621mと、600m以上の山にはすべて山名が記されている。それなのに、最高峰が無記名のままというのは、どういうことか。おそらく、この山が少しく奥まっているため、里人の入山が少なく、古来、集落とのかかわりが希薄だったからではないだろうか。
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 (↑:旧日貫村中心部:左寄りの奥に無名峰。その右手前にに栃山、城山と続く)

  最近この無名峰の東側山麓で造林が始まったのが県道(吉原あたり)から見える。えらいことだ。人間が本格的に山域に入るようになれば、命名される日は遠くないぞ。そして、その名が国土地理院の地図にかきこまれてしまったらもう取り返しがつかない。はくば岳や北岳と同様の運命を背負うことになる。その名は断じて、南(みなみ)山だったり東南(とうなん)山などといういい加減なものであってはならない。日貫人の心の山なのである。長じて他郷にあらば「ありがたきかな・・」と思いを馳せる山なのである。おまけに私は高齢者と定義される年齢だ。急がねばならない。日貫人みなが得心し、この山にも喜んでもらえる由緒正しい命名でなければならない。早速日貫のみなさんと相談することにしよう。
                                       矢上の寓居にて 平成25年3月

<その後>
日貫の皆さんが、協議の結果を町役場を通じて国土地理院に申請し、平成27年3月、この無名峰に「栃山」と山名が記されました。
by ohchi-ishihara | 2013-04-01 12:35 | いわみ賛歌

石原晋 名誉院長のブログ


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