前書き
名句とは私が心を動かされた俳句のことである。
句は「基本季語五百選 山本健吉 講談社学術文庫」から拾った。
この本には三万あまりの俳句が収載されている。私は半年かかって、歳時記、広辞苑、古語辞典、漢和辞典と首っ引きで、これら三万句すべての解釈にいどんだ。
そしてその中に、心底琴線に触れる珠玉の俳句二百首ほどを掘り当てたのである。これらは、私の残りの人生における座右の宝物となるであろう。
これら、私にとっての名句について、いちいち鑑賞文を書き添えるなぞ野暮の骨頂と思うが、なかにどうしても書きたくさせる俳句が二十首ほどあった。
この一句をこう読み解くのは私だけであろう。その読み解きを披歴すれば、「得たり」と得心し共感する読者が少しはいるやもしれぬ、そう思うと書かずにはおれなくなる。そういった類の俳句二十首について、思うたところを書き記しておく次第。
余生とは歩くことらし山わらふ 清水基吉
余を俳句の世界へ誘い入れた座右の一句である。
当初「山笑う」を、「夏の雲」とか「あかとんぼ」などと、季節ごとにいろいろ置き換えてみるのも一興か、などと思ったこともあるが、繰り返し味わうほどに、ここに置くべき季語は「山わらふ」以外にはないと納得した。
「山わらふ」は特別な季語である。私からではなく、山のほうから先に挨拶してくれるのである。こういった季語をほかに知らない。
余はほぼ毎日歩く。山川草木、花鳥風月を愛でつ癒されつ、毎日二里ほどを歩く。歩けばとりあえず一日が充実するのだ。そうして、「喜寿を過ぎたが、まだこんなに歩ける」と毎日感謝しているのである。
なるほど、「余生とは歩くこと」とは言い得て妙なり。
「山わらふ」は、そういう私を寿ぎ祝福してくれているのである。
私は受け手であり、大いなる自然の過客に過ぎない。
これ以外の季語を置くことは考えられない。
みちのくの春田みじかき汽車とほる 実
眼を閉じて低吟すれば、昔、春に訪れた遠野盆地が思い浮かぶ。広くたおやかな田園風景の中、三両ほど連結した汽車が釜石線をとことこと通っている。はるか彼方には、まだ雪をたっぷり頂いた早池峰山が白く輝いているではないか。
春の水わが歩みよりややはやし 予志
雪解けとともに、田へ引き入れる水路の掃除や手入れが始まる。それが済むと、それまで閉められていた堰が開かれ、水が勢いよく水路へ導かれる。
春の水である。
今年も間もなく田植えの季節がやってくるのだ。
ある日、春の水に沿って歩いていたら、この句を思い出した。そこで、枯れ葉を一枚放り込んで確かめてみたのだ。すると、なるほど「わが歩みよりやや早し」その通りであったので、思わずニンマリしてしまった。
袈裟がけに青山肌に大雪渓 福田蓼汀
詠み人は、山道を歩いていて突然この風景に出会い、仰天したのだ。峠の切通しを抜けたとたんか、あるいは振り向きざまだったか。舞台はどこなのだろう。
日本三大雪渓、つまり白馬、剣、針ノ木のいずれかか。飯豊山も有名だが、訪れたことがないのでこれはわからない。三大雪渓だとすれば、まず、雪渓の先頂まで蟻の如く登山者が連なる白馬岳の風情ではないだろう。剣岳はまるごと岩の山だ。剣沢大雪渓の両側は切り立った断崖絶壁で、青山肌などどこにもない。そこで、この句が詠まれたのは、残る三大雪渓の「針ノ木岳」だと思うのである。
詠み人は種池小屋を目指して扇沢から柏原新道を登り始め、樹林帯をぬけたところで振り返った。
するとどうだ。深い谷を隔てた対岸に、針ノ木岳が天に向かって聳え立ち、その青山肌に袈裟懸けに、一刀両断された大雪渓が眼前に展開したのである。その時の仰天、感動たるや尋常ではない・・ということが容易に実感できる。何を隠そう、これは私の体験でもあるのだから。
城のごとき船よぎりゆく露台かな 川合玉枝
関門海峡の最狭部、壇ノ浦あたりの宿の縁側に、詠み人は居るとみた。
対岸の門司は指呼の間だから、行き交う船はすぐ目の前を通過する。右も左も山が海へとせり出しているので、視界に占める海の角度は広くはない。従って、船が巨大だとその全貌を一時に捉えることはできない。山の端からいきなり、大きな船首がぬうっと現れ、次いで胴体が、そして船尾がゆっくりと、逆潮であればなおの事ゆっくりと、人の歩みほどの速度で、反対側の山影へ消えていくのである。
秋雨や線路の多き駅につく 中村草田男
駅は鳥取県の米子駅ではないか。山陰では松江市、鳥取市などとほぼ同規模の中都市だが、駅の線路の多さは他の二市を大きく凌駕する。
詠み人はおそらく、伯備線の特急列車で雨の中何時間も陰鬱な山間部を揺られてきたので、平野に出た最初の駅で、その予想外の大きさに少し驚いたのだろう。
町の大きさと不釣り合いに線路の多い駅としては、ほかに新津(新潟県)、米原(滋賀県)、鳥栖(佐賀県)などが思い浮かぶが、愁雨の山間部の長い道中との対比を印象させるのは、米子駅だろう。
霧ながら大きな町へ出でにけり 移竹
大きな町というのは釧路だろう。霧に覆われる日が多いことで知られる。道東一の都会だが、すぐ周囲には手つかずの広大な大自然がひろがっている。
札幌方面からの旅人ならば、帯広を過ぎると町らしい町は途絶え、寂寥とした風景の中を、暮れてからであれば、漆黒の闇の中を、延々と何時間も揺られてくるのである。そういう道中との落差が大きいので、町へ出たときの賑わいが意外なほどの驚きをもたらしたのだろう。しかも町は霧に包まれ幻想の世界だ。
百千鳥眴あちらこちらかな 茅舎
百千鳥は、「いろいろの小鳥が野山や森で群鳴するのを言う(山本健吉)」春の季語だそうだ。
電線や枯れ枝に小鳥たちがたくさん集まり、「かわいい娘はおらんかな?」ときょろきょろ物色したり、美形を認めてじっと凝視したり、ウインクしたり、などという、まあのどかな春であることよ。
島に東風バス待ち刻の手打ち蕎麦 桂郎
余は蕎麦には少々うるさい。自分でも打つくらいだ。うるさいぶんソバの地理や歴史にも少々詳しい(以下カタカナ表記のソバは植物名、漢字表記は料理名、ひらかなは両者を含む)。
この俳句、上五を「島」と発し、下五を「蕎麦」と括れば、余の推理では、その島は対馬ということになる。
ソバの原産地は中国雲南省あたりとされ、我が国へは、朝鮮半島から対馬経由で伝わったとする説が有力であり、対馬は、現在も対州ソバと呼ばれる在来種が伝わる、いっぱしのそば処なのである。
さて、「東風」とくれば菅原道真を匂わせる。詠み人は東方に郷愁があるのだろう。ならば、島は西国だ。これも対馬に附合する。
バス乗車の前に腹を満たしておきたいのは、かなり長時間のバス旅になるからだろう。大きな島なのだ。ちなみに対馬のバス時刻表をみると、対馬の北の玄関「比田勝港」から「対馬やまねこ空港」まで約二時間、島の中心市街「厳原」までだと二時間半もかかる。なるほど大きな島なのである。昼食はまだだから、腹ごしらえは必須だ。それも、できれば名物の対州そばと行きたいところだが、なんとバス停のそばに手打ち蕎麦の暖簾が見えるではないか。よし、食っていこう・・ということなのである。
というわけで、句が詠まれた舞台は、そば処として知られる、西国の、大きな島、すなわち対馬なのである。以上、そばにうるさい余の推論である。
うららかや猫にものいふ妻の声 草城
平和で穏やかな家庭風景である。
あまりに平和で、次なる場面展開にかすかな不安を覚えるほどだ。
不安が杞憂でありますように。
炎天の遠き帆やわが心の帆 山口誓子
余の青春はヨットと共にあった。冬場以外は毎週末のように、春夏の長期休暇中もほぼ全期間を広島の宮島周辺の海で過ごした。
一年以上に亘ったバリケード封鎖中も、学内の喧騒から距離を置きたくなったときなど、海に出たり、艇庫の桟橋で友と飲み明かしたりしたものだ。海はいつも余を包み込んでくれた。
あれからはや半世紀以上の歳月が流れたが、真夏の海に遠き帆を見つければ、そのたびに、胸が熱くなるのである。
この句には一目で引き込まれてしまった。
ところで、これは余談に過ぎないのだが、誓子の暮らしぶりをよく知る山本健吉がこの句を解説している。それは、余の鑑賞とは全く次元が異なるものだ。以下にその抜粋を記す(俳句鑑賞歳時記)。
「長い病気療養に横たわる作者は、出歩くことなく毎日病床から、一点釘付けになっていて、・・(中略)今や自分の望みの向こう側なるものを、乾いたことばでつぶやく・・『わが心の帆』と。」
ここで誓子が見ていたのは帆掛け舟だという。ヨットではない。
絵画にしろ、詩文、俳句にしろ、一旦作者の手を離れたならば、その作品は独立した一個の生命体となり、作者の意向や事情とは無関係に、鑑賞者と交感する。芸術とはそういうものだろう。
どう鑑賞しようが、鑑賞者の自由だ。この健吉の解説に出会い、今更ながらそう得心した次第である。
ところで、解説の役目とはなんなのだろう。
月見草はなればなれに夜明けたり 渡辺水巴
月見草は、俳句界では待宵草とほぼ同義。待宵草は「いとしい人を待つ」含みを持つ。
待宵草と詠めばよいものを・・、いやいや、それが俳句なのだ。
短夜の空の艶なるうすぐもり 孝作
短夜は明けやすい夏の夜を惜しむ気持ち。ことに後朝の歌としてしばしば歌われた(山本健吉基本季語五〇〇選)。
後朝とは、男女が共寝した翌朝(新潮国語辞典)。
「空の艶なる」は、「お天道さんの粋な計らい」との謂いや。
短夜の櫛一枚や旅衣 汀女
この妖艶な一句には、正直どぎまぎした。そこで汀女の他の句も百ばかり渉猟してみたが、これ以外には、かくもときめく句はなかった。
「台所俳句作家」と言われた汀女にしては例外的な冒険句だろう。
「身に着けているものは櫛だけ」とはいやはや・・
世にも暑にも寡黙をもって抗しけり 安住敦
近年、気象や地政に暗雲が立ち込めている。
人類がもたらしたこの事態を制御するのは人類の智慧でしかなかろうに。
老兵は、寡黙をもって去り行くのみなるや。
子供たち、若者たちと、生きとし生けるものに、幸いあらんことを・・
天地のこのとき若し田を植うる 遷子
「天地」は、日本最古の文書の冒頭に置かれた二文字である。
古事記は「天地初發之時(あめつちのはじめてひらけしとき)」で始まるのだ。
開かれし天地はやがて瑞穂の国となり、春には若返り、秋には稔りをもたらし、冬は眠り、春にはまた再生する。季節は巡り、今年もいつもと同じように田植えができることを喜び、感謝し、寿ぎながら暮らしが営まれてきたのである。
田園に暮らしてこそ実感できる知足の歴史だ。
割烹着ぬぐとき時雨ききにけり 真砂女
作者は小料理屋の女将だろうか。瀟洒なこじんまりした店だといいと思う。
お客の対応や調理にかまけて、店仕舞いまで外の雨に気付かなかったのだろう。品よく着こなされた着物の割烹着姿が色っぽい。こんな粋な句を詠むとは、感性豊かな女将なのだろう。ぜひとも訪ねてみたいものだ・・・と、この句を反芻していると、そんな想いが勝手にどんどん広がっていくのである。
そこで、それまであまり馴染みのなかった鈴木真砂女について調べてみた。
私の想像はすべて当たっていた・・どころではない。
真砂女は、私の想像を超えた、危ないほど魅惑的な女性であった。そしてなにより、数々の魅惑的な俳句の詠み人であったのだ。
お店は銀座にあり「卯波」といった。こんな店があったら、常連になるほど上京のたびに通い詰めたろうに、残念ながら、店は疾うの昔になく、明治生まれの真砂女も故人である。
店の名前は自作の句「あるときは船より高き卯浪かな」に由来するそうだ(ウイキペディア)。この卯月の海は故郷の外房鴨川だろうか、「のたりのたりとした春の海(蕪村)にも突然、日常が揺らぐほど大きな波が打ち寄せることがある」と詠んだこの句は、恋多き波瀾万丈の彼女の生涯を想わせて深い。
雑踏に捨てし愁ひや柳散る 真砂女
小料理「卯浪」は銀座一丁目にあったという。詠まれたのは柳通りだろうか。
背景に、BGMが聞こえる。ちあきなおみの「赤い花」が流れている。
ひとり来てお盆の過ぎし墓を掃く 清崎敏郎
人目を忍ぶ、訳ありの墓参なのだろう。故人を偲び、時に墓標に話かけ、こみ上げる思いを押し殺しながら、黙々と・・掃いているのか。
爽やかに屈託といふもの無しに 高浜虚子
この句は、「悟り」への憧憬を詠んだものと解する。
「悟り」とは、最終的な屈託たる「自我と生死への執着」から解き放たれた、「明鏡止水」というべき境地のことであろう。
俳句の道も掘り進んでゆけば、そういう境地に近づけるのではないかという思いが、虚子にはあったのかも知れない。
名句鑑賞シリーズはこの一句で閉めたいと思う。