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邑智病院の総務大臣表彰に思う

 なんとこのたび、わが公立邑智病院が優良病院ということで総務大臣表彰を受けました。めでたいことです。

私も、祝賀の席にお招きいただいたのではありますが、さて、いささか座り心地がしっくりこないような気もしたのでありました。


私は平成194月から病院長として8年間、その後も邑南町医療政策アドバイザーとして今日までずーっと、国の新自由主義的な医療政策に対して批判的なスタンスを続けてきました。とりわけ、公立病院に対して儲け主義経営を強要する「公立病院改革ガイドライン(総務省)」および、公的病院の口減らしを目論む「地域医療構想(厚労省)」に対しては、非力は承知なれども、持ちうる限りのチャンネルと機会を通じて、批判と抵抗の発信を続けてきました。祝賀の席の座り心地の違和感の所以です。


公立邑智病院ではここ10年間黒字経営が続いており、そのことで総務大臣のお褒めに預かったというわけでありましょう。

そこで、あえて申し上げるのですが、黒字化できている理由は、国(総務省や厚労省)が示すところのガイドラインや政策誘導とは無関係です。

邑智病院が健全経営を続けることができているのはなぜか。その主な要因は「繰り出し基準算定方式の明確化(本稿では触れない)」と「邑智病院方式経営自立プロジェクト」の2本柱にあります。


「経営自立プロジェクト」は平成25年の「京セラ式原価管理手法」導入に始まります。長引く全国規模の医療崩壊の嵐に翻弄され、邑智病院も経営不振にあえいでいました。そのような折、出会った殆どの経営コンサルタントがあざとく下品な提案を並べ立てるなかにあって、ひとり京セラ式だけが哲学を持ち、王道のオーラを放っていました。直ちに膝を叩き契約書類に押印しました。

京セラ式は「トップダウンを抑え、現場の発信を尊重する」「人件費には手を付けない」「余力のある部署が繁忙な部署を助ける」などを骨子に掲げていて、それらは、邑智病院がそれまでも大切にしてきた文化と実にしっくり馴染むものだったのです。


「京セラ式原価管理手法」は2年間で契約を終え、その後は院内でリーダー的職員が中心となって独自の改良を加え、さらに完成度を高め、「邑智病院方式経営自立プロジェクト」として今日に至っています。近年、その成果が広く知られるようになり、全国から多くの方が見学に来られるようです。

ですが、見学の成果を持ち帰ったならばすぐさま「邑智病院方式」をご自分たちの施設で実践できるかというと、残念ながらなかなかそうは行かないと思います。


なぜ邑智病院では「自立プロジェクト」を息長く継続できているのか、それは邑智病院には一朝一夕には獲得できない宝モノがあるからであります。その宝モノとはなにか・・・、それは多くの職員が持つ「帰属意識」です。

ある組織の活力は「構成員のいかほどが組織への帰属意識を持つか」に規定されます。

病院でも、会社でも、学校でもあるいは市町でも国家でも、どのような組織でも同じです。


「邑智病院ではほとんどの職員が、邑智病院を我が家のように思っている」というのが、私がこれまでに奉職したいくつかの病院と比較しての印象です。同様の感想を新たに着任した何人もの医師からも聞きました。

なぜそうなのでしょうか。ほとんどの職員が地元の住民であるということは確かにあるでしょう。しかしそれだけではない、もっとはるかに大きな理由があると感じます。

それは、邑智病院が楽しい、やりがいのある職場であること、人間として成長できる職場であることを職員一人ひとりが目指しているからであります。


社会人にとって、寝ている時間を除けば、職場にいる時間が最も長いわけですから、職場が楽しくなければその人生は大損です。

ではどうすれば職場を楽しい場所にできるのでしょうか。

職場を構成するのは、現場の一人ひとりの職員および、管理者たちです。まず、現場の一人ひとりが「職場を楽しくしよう」とできるだけ意識していること、そして管理者たる者は、現場を尊重し、職員一人ひとりを大切にすること、上位の指示で職員をがんじがらめにしないことなどが肝要であると考えます。


邑智病院がもつ大きな宝モノ(職員の帰属意識)の背景には、このような誇るべき組織文化があるのだということを、このたびの総務大臣表彰にあたり再認識した次第です。

これからも、邑智病院が職員にとってやりがいのある楽しい職場であり続けますように。しからば、邑智病院は不滅であります(政治状況がいかようであろうとも・・)。


邑智病院病院運営基本方針 第2

「職員同士がお互いのやりがいと誇りを尊重し合う暖かい職場をつくります」


# by ohchi-ishihara | 2021-12-27 09:41 | 医療時事

SDGsの日本語訳はおかしくないか?

  SDGsの日本語訳は適切か?

                      石原 晋


国連で採択されたSDGsは平成285月の閣議で「持続可能な開発目標」とされ、今日に至っている。

この邦訳に私は大きな違和感を覚える。

辞典を引けばDdevelopmentには開発のほかに発展、成熟などとある。あえて「開発」という訳語を選んだわけをいぶかる。


SDGsに掲げられた17項目の目標のほとんどは「開発」という表現になじまない。

貧困や飢餓を終わらせることは「開発」か? 

医療や教育をあまねく提供することは「開発」か?

地球環境の保全に至っては「開発」とは正反対のことだ。

これらの諸課題に対して目指すべき目標は「開発」などではなく、それぞれの課題についての社会システムの「成熟」であり、これこそSDG sのDの本来の趣旨だろう。

 

 政府の「持続可能な開発目標推進本部」には経営者団体も参加しており、そこではSDGsはビジネスチャンスだと位置付けられている。

「結果として成功ビジネスになった」というならまだしも、端から「SDGsでひと稼ぎしよう」というのは本末転倒だ。

それが「開発」という物言いに込めた含意だというなら、国家の品格が問われる。

 

  (山陰中央新報 令和31016日付けこだま欄への寄稿を再掲)


# by ohchi-ishihara | 2021-10-19 11:03 | 医療時事

邑南町の希望者全員への新型コロナワクチン接種が完了しました!

          邑南町の希望者全員への新型コロナワクチン接種が完了しました!                                                 邑南町顧問(医療政策アドバイザー)
                                     石原 晋

 わが邑南町では、8月14日に町内のワクチン接種希望者全員に対する2回目の接種が完了しました。接種対象人口(12歳以上の全町民9.504人)の84.3%にあたります。この数値は島根県内トップ(8月14日時点)ですし、全国的に見ても先頭集団でのゴールインです。全国の優良事例12自治体の一つ(若者接種促進)として官邸ホームページで紹介されています。
 あとは、何らかの事情で2度目を打てなかったひと、3月の意向調査のあとで気が変わった人、転入者など、数百人を対象に9月にもうワンクールの接種が予定されているだけです。
 これは国の2回目接種完了目標「10月~11月の早い時期(2021.7.6河野担当大臣)」と比べ、2か月以上先行したことになり、関係者一同「やったね!」という思いです。
 以下、邑南町においてワクチン接種が極めて円滑に完了できた理由を考察します。

ロジスティクス担当者の都合を最優先に接種体制を決めたこと
2021年1月28日に石橋町長、役場の担当部署(保健課、医療政策課)、町内全医療機関の医師が公立邑智病院に集まり、近々開始される予定のワクチン接種体制についての協議を開始しました。その最初の会議では、個別接種案、町内の12の公民館を接種会場とする案、合併前の旧町村3地区で実施する案などが検討されましたが、結局この事業において最も困難な作業はロジスティクスであろうから、それ以外の事情、例えば各医療機関や個々の医師の都合はとりあえずあとまわしにして、ロジスティクスを担当することになる役場保健課に接種体制/接種計画の策定を一任することとし、医療機関、医師、看護師などはできるだけ文句を言わずにそれに協力することを申し合わせました。

集団接種方式を採用したこと
その結果、一般町民に対しては集団接種方式で実施し、高齢者入所施設と県立矢上高等学校については施設内接種でという方針に決まりました。
 集団接種会場は、65歳以上の方については移動の利便性を考慮し、合併前の旧町村ごと(石見町、瑞穂町、羽須美村)の3か所としました。64歳以下の方については、瑞穂会場1か所のみとしましたが、お仕事の都合に配慮し、平日夜間や土曜日、祝日にも会場を設営することにしました。

町民向けワクチン接種説明会と意向調査
3月15日、町内のすべての集落(班)の保健衛生委員にお集まりいただき、説明会が開かれました。
 最初に私が「新型コロナの症状や後遺症、ワクチンの効果と副反応」について講演し、続いて役場保健課からワクチン接種計画の実施要領について説明がなされました。
 そして、保健衛生委員の皆さんを通じて、すべての町民に説明を伝達していただくとともに、対象町民全員に意向調査票と申込書を届け、回答を回収していただきました。
 また、私の講演内容は、町のケーブルテレビでも放映してもらい、啓発を図りました。

個人の接種日時は、なかば一方的に役場保健課が割り振りました
個人で個別に接種日を予約するという方法は煩雑と思われ採用しませんでした(この方法は後に全国の多くの自治体で、電話やネットがつながらず予約できないと、大きな混乱を招きました)。
 邑南町では、意向調査で接種を希望された町民に3コマ程度の選択肢を示し、あとは半ば一方的に接種日時が決められました。
 このことに対する町民からの苦情は聞かれず、むしろ、予約が困難な他の市町の状況と比べ「うちらはええなア」という投稿(山陰中央新報5/25)がみられるなど町民の評判は上々でした。
 この半ば一方的な接種日時の決定方法は、就業している青壮年の方については、事業主の理解と協力が不可欠と思われ、石橋町長から町内事業所に対して、事業所内クラスター発生のリスクやBCP上の課題などに鑑み、従業員が接種を受けやすいよう配慮していただきたいとのお願いがなされました。

町内の全医師、全医療機関の参加、潜在看護師の動員
集団接種は、まず高齢者向けに町内3会場において3時間×48コマ実施し、12~64歳(除 矢上高校生)は1会場において3時間×60コマ、合計108コマを実施することとし、町内全医療機関の協力のもと、1コマにつき医師2名、看護師4名(潜在看護師を含む)が割り当てられました。一会場一日につき3コマまたは2コマ実施し、1コマあたりの接種者は150名程度となりました。
 集団接種は5月10日にはじまりました。そして早くも7月上旬には高齢者への接種終了を待たずに、64歳以下への接種も並行して開始されました。そして8月14日にすべて完了したのです。
 このことについては相当タイトな計画となりましたが、河野圭一郡医師会長の「帰省や来訪者が増えるお盆までに終わらせてしまおう」という強いご意見によるところが大きかったのです。ですが急遽前倒しになったことで、ロジスティクス担当の保健課はじめ役場職員には大変な負担だったと思います。皆、よお頑張りました。
  さて、邑智病院ではすでに4月から町内の医療機関の職員むけ接種が始まっていましたので、町主催の集団接種会場の運営やワクチン接種に携わる予定のスタッフ(保健課はじめ役場職員、医師、看護師ほか)は逐次、邑智病院へ見学や手伝いがてらの研修に行きました。また引き続き、集団接種開始に向けたリハーサルが本番さながらにおこなわれました。
 他の地方では、ワクチン取り扱いのミスなどによって間違った濃度で注射した、とか、何千人分ものワクチンが無駄になったとかの報道が多く聞かれましたが、邑南町ではリハーサルや研修などを経て、周到な準備のもとで何事もなく粛々と完了することができたのです。

VRS(ワクチン接種記録システム)
VRSとは、この度のワクチン接種事業において、どのワクチンをいつ、だれに、どこで接種したかを国に報告するシステムです。
 国は接種当日に報告することを求めていますが、多くの自治体では、忙しいので何日分かまとめて報告したり、システムが使いにくいのであとで手書きで報告するなどのことがおこなわれて来たため、国はリアルタイムでの接種状況が把握できないことから「ワクチンを使わずに在庫を抱え込んでいる自治体がある。このような市町の追加発注は受けつけない」などと国が自治体に圧力をかける事態も起こっています。
 邑南町では、超多忙を極める中、保健課職員が接種当日中に遅滞なく入力することをやり遂げました。そのため、国からは順調にワクチンが届けられ、当初の計画どおりに接種を完了することができたのでした。

 接種を希望するすべての町民へのワクチン接種を「お盆までに完了する!」という私たちの目標が達成できた背景には、町長のリーダーシップ、役場職員の粉骨砕身の働き、多くの医療関係者の損得勘定抜きの貢献、そして町民の皆さんのご理解とご協力があったことを伝えたく、報告させていただきました。
 新型コロナパンデミックの一日も早い終息を願うとともに、この度のコロナ禍の経験や反省に学び、この国のかじ取りが、効率一辺倒から、人情味のある政治へと向かうよう心から祈るばかりです。

# by ohchi-ishihara | 2021-08-21 22:18 | 医療時事

邑南そば街道の夢

邑南そば街道の夢                  
  (特別講演会 平成29年11月18日邑南町矢上交流センター)

 皆さんこんにちは、一般社団法人「食と農人材育成センター」代表の石原晋です。お集まりいただきありがとうございます。
 本日のテーマ「邑南そば街道の夢」というのは、もちろんわが法人の事業に関連しているわけですが・・・、それに加えて、大変勝手ながら、私が無類のそば好きということにも関わっているのでありまして、その点、どうぞご容赦ください。
 私事で大変恐縮ですが、私の趣味は、山登りと鄙びた温泉めぐりとそばです。いい山に登って、降りてきたらいい温泉があって、加うるに美味いそば屋がある・・というのをワンセットにして訪ね歩く旅を至上のよろこびとしている者なのであります。

 さて、全国に「そば街道」と呼ばれ賑わう多くの地域があります。その「そば街道」とはいったい何か。このことについて私なりの見解を述べますと、まず「ソバ(在来種)の生産地である」、そして「こだわりのそば屋が軒を連ねる」、さらに「そば好きのリピーターが全国から訪れる」、その結果「ソバ/そばでその地域が賑わい潤う」というのがそば街道なのであります(カタカナのソバは植物、ひらかなのそばは食べ物)。わが邑南町をそういう町にしたい!というのが本日のお話なのであります。

 「そば好きのリピーターが全国から訪れる」と申しました。では「そば好き」とはどのような人種でありましょうか? 私の定義によれば「そば好き」とは概ね以下の5項目を満たすような人たちです。1、月に最低4回はそば屋に行かないと禁断症状が起こる 2、そば屋で注文するのは「もりそば(ざるそば)」だけ。3、すばらしいそば屋があると聞けば日本中どこへでも・・・「いつかは行くぞ」と誓う。4、自分でも下手なそばを打つ。そして5、なによりも、「そば」は「道(どう)」であると思い込んでいる、という人種なのであります。「道」とは茶道、華道などの道です。
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そば道・・そばきりは禅とともに広がった
 さて「そばは道である」というのはどういうことか。ここで我が国のそばの歴史を振り返ってみたいと思います。
「そば食」の歴史は古く、すでに縄文、弥生の遺跡からその痕跡が多く発掘されています。ですがこの時代のそば食はもっぱら粒食、つまり、実をそのまま粥のようにして食べていたようです。奈良、平安期に入ると、粉にして捏ねるという食べ方が登場します。ただしこのころはまだ石臼は存在せず、製粉の方法としては、もっぱら杵つきや薬研を用いたもので、そのため粉は粗く、そばがきやそばもちにして食べていたようです。そば粉を捏ね、伸ばし、包丁で細く切って麺にして食べるというわが国独自のそば文化「そばきり」の登場は、それからまだかなり時代が進んでからのことのようです。

 1191年、宋で修業していた栄西(臨済宗開祖)が帰国します。そして「禅」と「茶の湯」を伝えました。そのとき栄西が我が国に初めて「石臼」を持ち帰ったといわれています。
石臼の伝来により、そばはより細かく繊細に製粉されることになり、ここにはじめて、そばを麺の状態にして食べる「そばきり」が生まれたとされています。
 以後、「そばきり」は禅、茶の湯などと一体となって普及してゆくことになります。

 「禅」の神髄は「心身脱落(しんじんとつらく)」、すなわち心身に纏わる「煩悩」「我執」を極力引き算し「無」の境地に至る。その修業は「只管打坐(しかんたざ)」、ひたすら日々ただ座禅を組むというものですが、その修業の間は「五穀絶ち」ということが行われます。すなわち、米、麦、粟、稗、とうもろこしの五穀を口にすることは禁じられ、穀類として唯一そばのみが許されます。その結果、そばきりは「禅」と一体となって広がっていったといいます。
 日本各地に「そばきり発祥の地」とのいわれが伝わる場所が何か所かあります。例えば木曽大桑村浄戒山定勝寺、山梨県甲州市天目山栖雲寺、京都慧日山東福寺、博多萬松山承天寺などですが、これらはすべて臨済宗すなわち禅宗の古刹なのであります。このことからも、禅とそばの深い繋がりを窺い知ることができます。
 さきに、「そば好きという人種はもりそばしか食べない」と言いましたが、禅とともに広がり、禅の心を体現するものこそ「もりそば」であると思うからでありましょう。
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 「もりそば」は、余計な粉飾を極力そぎ落とし、引き算の美学の神髄に迫る、いわば枯山水のような深い一品です。その一品を、侘び寂びの風情漂う佇まいの中で、一輪の花、道具立て、亭主のふるまいなどをめでつつ頂けば、当方としても自ずと清々しい凛とした気に包まれようというものです。そば道の道たるゆえんであります。

 そば街道
 さて、日本全国には多くのそば街道があります。これらの地域の中には、出雲大社や善光寺など、著名な神社仏閣があって、別にそば屋などなくても門前市をなすだろうと思われる町もありますが、その一方で、その地を訪れる理由は「そば」しかない、ほかには見るべきものはなにもない辺鄙な山の中、という町や村も少なくありません。そして、それらの町や村は、「そば」が有名というだけで結構な賑わいを見せているのであります。 
 
 その典型例をひとつ、福島県に山都町宮古(現、喜多方市の一部)という集落があります。山形県、新潟県との県境、飯豊連峰のふところ深くに位置する40戸に満たない山深い里です。その山里の100mほどの田舎道に沿って14軒ものそば屋が軒を連ねているのです。それ以外には何もない。そんな不便な山の中にも関わらず、どのそば屋も大変繁盛していて、週末などは予約が取れないことも少なくないといいます。この宮古集落でふるまわれるそばは、「寒晒しそば」という独特のものを冷たい湧き水に浸して食べる「水そば」という極めて特異なもので、その珍しさに惹かれて多くのそば好きが遠路わざわざ集まってくるというわけです。

 兵庫県北部の山間部に出石町(現、豊岡市)という古い城下町があります。大阪市や神戸市からは車で2時間以上かかります。この人口1万1千人の田舎町に、40数軒のそばやがひしめき、どの店でも一様に黒っぽい田舎そばを小皿に盛って出すのですが、このそばを目当てに、多くの観光客で繁盛しているのであります。そば屋街の駐車場の利用客数から割り出した年間入込客数は90万人前後とのこと(市観光協会HP)。そば屋一軒当たり2万数千人のお客さんという勘定でしょうか。

 さて、わが島根県も、東部の出雲地方は言わずと知れた全国に名だたるそば処です。「出雲そば」の特徴は、出雲地方の在来種を殻ごと挽きぐるみにした黒いそばを小さい器に盛り付け、つゆをかけて食べる「割り子そば」といわれるものです。松江市や出雲市などにも名店がそこそこありますが、瞠目すべきは、横田町(現、奥出雲町)です。南を広島県境に接する山あいの地区で、ヤマタノオロチ伝説やたたら製鉄で知られる由緒ある町ですが、人口は7千人ほどの静かな山里です。この横田地区では、良質の在来種、横田小ソバを産出することから、14軒ものそば屋があり、それぞれが繁盛していて、週末などはどの店の駐車場も他府県ナンバーの車であふれています。もちろん、「割り子そば」が中心です。

 これらは、全国にあまたある「そば街道」のほんの一部を紹介したものですが、いずれにせよ、その地域特有の個性を持ったおいしいそば屋が集まっており、そこそこ名前が売れてくれば、いわゆる「そば好き」たちがうようよと集まってくるようになり、ずいぶん辺鄙な田舎でも、結構な賑わいがもたらされるということを表しているのであります。
 わが邑南町あるいは邑智郡も、このような「そば街道」と呼ばれ、そば好きが集まる町になりうる地域である、ということを以下にお話ししてみたいと思います。

黒いそば、白いそば、その中間・・そばは大きく分けると3種類
 「そば屋」でいただくそばには、出来合いの袋麺や乾麺を湯がいただけの、全くこだわりのない400円前後のそばもありますが、本日お話しているそばは、そういういい加減なそばではなくて、「こだわりのそば」についてであります。さて、一口にそばといいますが、その内実は極めて多様です。ソバの実、製粉方法、ブレンド方法で異なるのはもちろん、同じ粉を打っても、そば職人ごとにも異なるばかりか、同じ職人が打っても、毎回別のものができるとさえ言われます。それでもあえて、このそばを無理矢理ざっくりと分類しますと、大きく3系統に分類できます。白っぽいそば、黒っぽいそば、その中間の3系統です。これらの違いは、ソバの実のどの部分を使用するかによって決まります。 
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 ソバの実は中心部分(芯)は真っ白で、一番粉あるいは更科粉といいわれ、ほぼ純粋なでんぷん質です。芯から外側に向かうにしたがって次第に色が濃くなっていき、それにつれてアミノ酸や脂肪分が増えていきます。外側に向かって順に、二番粉、三番粉、四番粉、そして甘皮があり、その外側に殻があります。
 殻ごと挽きぐるみにした粉で打つたそばは、黒っぽく、味や香りは強いが、コシはあまりなく、噛むと歯にぬかる(くっつく)感じがあります。一方、芯の部分(一番粉、更科粉)主体のそば粉で打たれたそばは、いわゆる「更科そば」といわれるもので、白っぽく、やや透明感があり、口当たりやのど越しの良いのですが、香りや味は薄く、個性に乏しいということから、「更科そば」の店の多くは「つゆ」で勝負する店が多いように思います。
 そして3番目が、二番粉、三番粉など、中層の粉を主体にしたそばで、味、香り、のど越しのすべてにおいて、黒いそば、白いそば両者の「良いとこ取り」を求めたそばとなります。
 どの系統のそばが好きか、というのは個人の好みの問題であって、出雲そばの味と香りをしみじみと噛みしめながら味わうのが好きな人もあれば、江戸前の真っ白なそばを、ほとんど噛むことなく、豪快にすすっては飲み込み、咽頭から鼻腔へと逆方向へ飛散するつゆの香りを楽しむのを粋とし、こよなく愛するそば通もいるわけです。自分はといえば、どのそばも好きなのですが、その中でもとりわけ、中層主体の粉で打たれたそばが好きなのです。

 さて、わが邑南町は二つのそば文化圏に挟まれております。

東は出雲そば文化圏
 東に隣接する出雲の国は、言うまでもなく我が国を代表するそば処の一つです。奥出雲地方では平安時代から、たたら製鉄用の炭のために伐採された山々で焼畑によるソバ栽培がおこなわれていたようです。
 出雲国におけるそば切りの始まりは、江戸期の初め(寛永15年)、松平直正が初代松江藩主として信州松本から移封されたときとされていますから、大変な伝統文化です。
 その特徴は地元産玄そばを殻ごと挽きぐるみにした黒っぽいそばを、割り子という小さめの器に盛り付け、つゆをかけていただく。盛りは少ないので、これを3杯5杯と食べるのが出雲流です。もちろん店によってそれぞれ特徴があって、私はそれらの中でも、粗びき気味のざらついたちじれ麺を提供する店を愛しております。 

南にはさらしなそば文化圏
 一方、わが邑南町の南隣、広島県も、歴史は新しいのですが、今や「さらしなそば文化圏」と呼んでもいいと思います。
 広島県中西部の山里、豊平町(現、北広島町)は古くからソバ栽培がおこなわれていましたが、ご多聞に洩れず過疎化が深刻でした。その対策の切り札として、山梨県在住の伝説的そば打ち名人、高橋邦弘氏を招聘することに成功しました。
 
 高橋名人ともあろう著名人がなぜ豊平町に来る気になったのか分かるような気がします。おそらく、良質の在来種の栽培地であれば辺鄙な田舎であるほどよかったのではないかと勝手に想像しています。そう考える理由は、高橋氏のそれまでそしてその後の去就にあります。 氏は「蕎麦聖(そばひじり)」と呼ばれた片倉康雄名人に師事し、その師範代ともいわれました。
 やがて昭和50年に東京で「翁」を開店しました。しかし繁盛しすぎたこの店を10年でたたみ、在来種ソバと良質の水を求めて南アルプス甲斐駒ヶ岳のふもと、山梨県長坂町に「翁」を移しました。しかし不便とはいっても、この地もやはり東京とは背中合わせ。すぐに首都圏の客が引きも切らない繁盛になったようです。
 そして平成13年6月に広島県豊平町に招かれ、ここに「達磨雪花山房」を開きました。「達磨雪花山房」は、それはそれは山深くたどり着くのが大変な、意地悪な立地のお店でした。それでも駐車場からあふれた県外ナンバー車が店の前の林道に100mも並ぶ有様で、私も3回訪れましたが、3回ともそばにありつけず、あきらめて帰りました。「一日300食限定、売り切れごめん」のシステムだったのですが、平日でも開店前から並ばなければそばにありつけない状態だったのです。
 そして高橋名人のその後はというと、大分県杵築市の海の見える高台で、会員制の店を開き静かにそばを打っておられるようです。そう、名人は門前市をなす大繁盛を嫌い、本当のそば好きを相手に、顔を見ながら一期一会のそばを打ちたかったのではないかと思うのです。

 さてこの豊平町「達磨雪花山房」は、そば屋でしたが同時に道場でもあり、名人は多くの弟子を育てました。ここ10年余りの間に、そのお弟子さんたちが開店したそば屋が広島県内から山口県西部にかけて広く散在し、おいしいそばを食べさせてくれるようになりました。広島、山口あたりで評判の良いそば屋に入ると、ほとんどの場合、さらしなの白いそばが、出汁の効いた芳醇なつゆを添えて提供されます。聞けば案の定、「達磨雪花山房」で修業したとのこと。というわけで、今や広島県もまた、そこそこの「そば文化圏」なのであります。

 邑南町在住のそば好きにとって、割り子そばが食べたくなれば、奥出雲や松江へ、更科そばが食べたいなと思えば、広島へということで、まあ恵まれているといえなくもないのです。ですが、私の一番好きなそばは、実は、それらいずれでもない中層粉のそばなのです。黒くもない、白くもないその中間色の、味も香りもコシもある歯切れのよい欲張りなそばが私の大好物なのです。山歩きの旅の途中、山形県尾花沢、熊本県小国町、福井市などで出会った、あの欲張りなそばに、この近辺では出会えないだろうか、と日々思いを募らせていたのであります。
 そしてある日ついに、その欲張りそばに出会うことになります。

三瓶そば「千蓼庵(せんりょうあん)」
 もう7年位前になるでしょうか。ある日曜日、早朝から三瓶山に登り、下山して小屋原温泉でまったりするつもりで向かっていると、小さな集落のなかにポツンと、おやまあこんなところにそば屋が・・・古民家風のなんとも清楚で粋なその佇まいに、亭主の哲学が偲ばれます。これは「そば道」にこだわる良い店に違いない、と期待に胸膨らませて暖簾をくぐった、これが千蓼庵との出会いでありました。

 店内には音量を控えたジャズが静かに流れ、壁面にはさりげなく置かれたアンティークの小物類、そしてテーブルに置かれた一輪挿しの野の花が、そば屋たるものかく有れかしという私の願望そのままの空間を形成しているのです。
 私はいつものようにメニューはちょっと見るか見ないかで、もりそばを一枚所望しました。待つことしばし、目の前に置かれたそばは、なんと私の大好きなあの欲張りそばそのものです。黒くもなく白くもない、かすかに薄緑がかった灰色のそばは中層粉主体のそれにちがいありません。やや細め、長さ八寸、太さ長さとも見事にスキなく切りそろえられ、粗びき風にややざらつき、ややちじれ、にもかかわらずエッジはしっかり尖り、コシの強さを窺わせるべく隙間の多いこんもり盛り上がった姿は、直ちにこれこそは私が会いたかったあのそばだ・・とわかりました。そばの味、香り、食感は見ただけで想像できます。啜りこめばその香り味、のど越しはまさに見た目から想像したとおりのものでありました。
 「もりそばもう一枚ください」と3枚目をお願いしたとき、「お気に召しましたでしょうか?」と奥から亭主がでてこられたのです。これが岩谷師匠との出会いとなりました。
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 拙宅から三瓶までは車で小一時間ほどかかるのですが、それからは月に2回はおじゃまするようになりました。そうして何年か通ううち、岩谷師匠のそばを、もっと近くで食べられるようにならないものかという思いが次第に募っていったのであります。そして、岩谷師匠を邑南町へ招聘することを企んだのです。
 石橋良治町長と商工観光課のカリスマ公務員、寺本英仁君を千蓼庵へ連れていき、師匠のそばを食べてもらいました。そして思い通り彼らは師匠のファンになりました。そして招聘案の賛同を得たのです。その後も粘り強く口説き続けた結果ついに、邑南町で「そば道場」を開いてもらうことになったのです。

邑南十割そば「ふくのや」開店
 この岩谷師匠が指導するそば道場に参加したIターン町民の伊藤正規氏が師匠のそばに目覚め、千蓼庵で修業するはこびとなりました。そして平成29年1月、ついに町内の市木地区で「邑南十割そば ふくのや」を開店するにいたったのであります。ハレて岩谷流のそばが町内で味わえることになったわけです。
 岩谷師匠は、開店後の3か月間、指導、立ち上げ支援のためにきてくださいました。

 「ふくのや」は地元市木地区の地域再生自主組織「安夢未(あゆみ)」が開設しました。古商店を改造し、町の補助を得て自家製粉設備も設置されています。
 提供されるそばはもちろん、黒くもない、白くもない、三瓶小ソバを使った、岩谷師匠流の中層粉主体のそばです。次第に評判を呼び、広島ナンバーなど他県の車が多くなってきております。
 
三瓶小ソバの栽培
 さらにそば屋開店と並行して、地元市木地区では、千蓼庵など三瓶そばの店で使われている「在来種三瓶小ソバ」を譲り受け、またその栽培農家である山下廣文氏を招いてその指導のもとに、ソバ栽培が始められ、漸次その面積を拡大しつつあります。もちろん「ふくのや」で製粉しているのもこの地元産の玄ソバです。ソバ栽培普及活動の中心となっているのが、市木地区の町会議員、亀山和巳氏です。当初、三瓶小ソバの栽培は市木地区から始められたのですが、亀山氏は次第に町内全域に広げようと意気込んでおられます。
 私どもの法人が目指す「邑南そば街道」においても、これまでの亀山氏たちの積み重ねに協働する形で、「三瓶小ソバ」の生産拡大を図っていこうと計画しております。

伝説の在来種「三瓶小ソバ」
 なぜ「三瓶小ソバ」なのか。もちろんこれが同じ石見の国の三瓶の在来種であるということが最も重要なのですが、それだけではありません。実は「三瓶小ソバ」は只者ではないのです。

 国内で消費されるソバは輸入が8割、国産が2割です。輸入物は安価で、乾麺や菓子の原料などにされています。一方「こだわりのそば屋」が使うのは国産の玄ソバですが、これはさらに、在来種と改良種(育成種)に大別されます。
 在来種はその名が示す通り、昔からその土地に自生して長い間その自然風土に適応してきた固有の種です。おおむね小粒で味・香りが強く、「こだわりのそば屋」が欲しがるのですが、その一方で、風雨に弱く収量が安定しない、そのため価格も不安定であるというような欠点があります。
 この在来種の欠点を改善すべく、多収性、安定性を求めて、大学の農学部、あるいは道や県の農業試験場などで開発されてきたのが改良種です。常陸秋そば(茨城県)、信濃一号(長野県)、キタワセ(北海道)などが代表的で、いまやこれらの改良種が国内産玄ソバの8割以上を占めているようです。
 従って在来種は希少な存在となっているのですが、そば愛好家や「こだわりのそば屋」には珍重されており、高値で取引されているようです。「そばの旅人(福原耕著、文芸社、2017)」には、代表的な在来種として、戸隠在来(長野)、奈川在来(長野)、丸岡在来(福井)、新潟小ソバ、横田小ソバ(島根)の五つが挙げられ、さらに著者は「横田小ソバを産する出雲国の隣、石見の国には『三瓶ソバ』がある。小粒で粘りがあると伝えられる」と書き加えています。この「伝えられる」という物言いは「愛好家には知られているようだが、流通量寡少のため口にしたことがなく、詳細は不明」というようなニュアンスなのでしょう。まさに三瓶在来はそういう伝説めいた位置づけにあると思われます。これを、邑南町で広く栽培し、横田小ソバに匹敵する、あるいは凌駕するブランドに押し上げようというわけです。

 さて、このように、邑南町には、黒い出雲そばでもない、白い更科そばとも異なる、中層粉主体のそば、しかも伝説の三瓶在来種・・ということを「売り」に、つまり「差別化要素」としたそば文化が萌芽しつつあります。ソバ栽培もそば打ちも優れた指導者にめぐまれています。
 私どもの法人では、このような萌芽を大きく発展させ、三瓶在来種の栽培/販路拡大、そば職人の養成、そば屋の起業支援、広報活動などを総合的に展開し、蕎麦による町起こし「邑南そば街道」を推進したいと、平成30年度以降の事業として計画しているところです。
皆様のご支援、ご協力をよろしくお願いいたします。
ご清聴ありがとうございました。


# by ohchi-ishihara | 2018-01-20 15:39 | そば談義

明りは見えるか?

トランプ氏の当選について日本病院会から寄稿依頼があり、一文したためました
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「日本病院会ニュース第959号」

明りは見えるか?
公立邑智病院名誉院長
日本病院会島根県支部長 
                    石原 晋

トランプ氏が次期米国大統領に就任することで、今後の米国が、日米関係が、世界情勢がどのように変化してゆくかは、不確実であるから論じる意味がない。それよりも、このたびの選挙結果が物語る今日の時代状況について考察したい。
 選挙結果は、これまで米国が主導してきたグローバル資本主義と、それがもたらした様々な負の事象(グローバルリスク)への大衆的反逆であろう。貧富格差の拡大、地球温暖化に伴う水/食糧危機、投機的金融の暴走(ヘッジファンド)、大規模な難民問題など、現代世界を覆う暗雲の背景にグローバル資本主義の拡大があるからだ。
 この反逆は、英国のEU離脱や、フランス、ドイツなどにおけるナショナリズムの急速な台頭と同期しており、グローバル資本主義に対する「NO!」が世界的風潮となりつつあることを示しているようだ。
 グローバル資本主義を支えた理論的支柱は国際分業論(比較優位理論)とトリクルダウン仮説であった。グローバル企業が利益を極大化できるよう、国内規制を緩和し、国際貿易障壁を取り除き、資本の国際移動を容易にし、その結果グローバル企業が大儲けすれば、その富が回りまわって下々に滴り落ちてくる・・・という支柱理論は実は大嘘であった。勝ち組の富は滴り落ちはしない、勝ち組は勝ち逃げする、ということがばれてしまった。そのことの帰結が今回の選挙結果であろう。
グローバル資本主義の進展に伴い、国民国家の独立性が次第に損なわれ、多くの先進国において国政がグローバル企業の走狗に成り果ててしまった。TPPなどいったい誰のためのものなのか。敬愛してやまない経済学者、故下村治(池田勇人内閣顧問)は著書のなかでこう述べている。「国の経済の仕事は、この国土に住む1億2千万人にどう仕事を確保し、どう食べさせるかである。そのために必要なら、保護貿易主義もやむを得ない」。それぞれの国家にとって自国民の生活が第一というのはあたりまえのことだ。我が国の官邸周辺もそうお考えであろうと信じたい。さらに、トランプ氏にはなにも期待しないが、トランプの勝利をもたらした時代状況には、次の時代を予感させるいくばくかの明りを探せるようにも思うのである。
# by ohchi-ishihara | 2016-12-12 13:48 | 医療時事