「広島学院中学高校5期生会喜寿記念誌」より。「遠き潮」は校歌の歌詞の冒頭
石原 晋
歳を取るにつれて次第に増幅するある思いがある。中学一年生くらいの少年を見かけるたびに、込みあげてくるあの思いだ。僕は、あんないたいけない年齢で、自分で衣類を洗濯していたのか・・・という感慨である。自分では強がっていたが、母親はどんなにかつらかったろう。
学校でも下宿のアパートでも、おおむね明るく元気に振舞っていたと思うが、それでも夜、寝る段になると母が恋しくてやるせなかった。
当時、郷里石見町へはバスで4時間以上かかったから、週末も帰ることは叶わず、帰省は年に数度の長期休暇に限られた。
五期の同期生120人中、親元を離れて下宿生活をしていたのは7人だったと思う。みんなにも同じような寂しさがあったと思うが、実家に遊びに行ったことがあるS君とも、そういう湿っぽい話になったことは一度も無くて、学校ではみな元気に過ごしていた。
僕は郷里の小学校では神童といわれ、自分でも何となくそう思っていた。ところが、中学に入り最初に受け取った成績通知を見て、その自負は無残に打ち砕かれた。神童から劣等生への急転直下の転落は、12歳の少年にとって、心のありようをも変える大きな衝撃となった。
衝撃はそれだけでは済まなかった。人生で最も多感な思春期に、島根の山奥から中四国一の大都市に単身出て来たのだから無理もなかった。田舎住まいでは決して体験することのない驚愕すべき事態に次々と出会うことになったのである。
僕が広島に出て来たのは折しも60年安保闘争の年で、広島市内も騒然としていた。
広島に来て間もないある日、宵闇迫る紙屋町付近で大規模なデモに遭遇した。暗天に向かって突き上げた赤旗を先頭に、機動隊ともみ合いながら行進する一団に、12歳の僕は眼も心も奪われた。その場に佇立したまま身震いが止まらなかった。来たるべき自分の青春を垣間見た気がした。そしてそれを畏怖した。
中学入学と同時に、高須のS荘という賄い付きのアパートに下宿した。S荘には兄を含む3人の先輩と、同級のK君の計5人の学院生に加え、S女子大や広島大学の学生などが住んでいた。
アパートの前には公園を隔てて広電宮島線と国鉄山陽本線が並走していた。山陽本線はまだ非電化で、SLに引かれて軽快に走り抜ける何本もの列車に見とれながら、都会に来たことを実感したものだ。
毎朝「特急あさかぜ」の轟音で目覚め、「はやぶさ」の疾走を見送りながら登校した。
夜、勉強しているとチャルメラ屋がラッパを鳴らしてやってくる。このラーメンも初めて知る都会の味だった。賄い飯だけでは就眠時まで腹がもたないので、このラーメンが病みつきになってしまった。当然月の後半には財布が空になり、みじめな思いをした。中学一年生に財布の管理などどだい無理だったのだ。畢竟、授業料の滞納も一度や二度ではなく、親が呼び出されたこともあった。
アパートS荘では広島大学の学生たちが夜ごと一部屋に集まり、おそらく安保闘争に関連した議論で、遅くまで話し込んでいた。僕は中学一年生に過ぎなかったが、彼らの真剣な眼光や語り口から、憂国の士とでもいうようなオーラを感じ、怖かった。
このアパートに、S女子大に通う〇〇ひとみさんという美しい人がいた。行き会うと優しく微笑んでくれて、僕は恋した。あるいは、母性に飢えていたのかもしれない。
ある晩僕は、共同の洗い場で下着を洗濯していた。と、その時ふと人の気配を感じて振り向いた。するとどうだ、すぐ後ろ30cmほどの近さに、そのひとみさんの顔があるではないか。目に涙を浮かべて僕を見おろしている。そしてこう言ったのだ。「晋ちゃん、貸してごらん。私が洗ってあげるから」。そしてあろうことか、やにわにバケツの中の僕のパンツに手を伸ばしたのである。
胸が爆発するかと思った。そのころ僕は〇〇も覚え、何度かの夢精も体験していて、洗濯物にそれらしき汚れも混じっていたので、バケツをしっかり確保し走って自室へと逃げ込んだ。いつまでも動悸が収まらなかった。
高校生になって、己斐に引っ越した。その下宿にはS大学の拳闘部の主将、I氏なる、「葉隠」を座右に置く親分肌の大学生がいて、僕はそのI氏に心酔し、子分のように、銭湯へも広電会館へもどこへ行くにもくっついていた。拳闘というか喧嘩の作法などもずいぶん仕込まれた。
そんなある日その事件はおこった。己斐で電車を降り、友人と別れて一人になった僕に後ろから声をかける者がいる。「おい、お前、電車の中でわしにガン付けとったじゃろうが。ちょっとついてこい」というではないか。あまり柄が良くないといわれた〇高校の生徒だ。こういう場合、学院の生徒のほとんどは狼狽するか、「君子危うきに近寄らず」とばかり透かさず謝ったりするに違いなく、畢竟、舐められているに決まっていた。そういう世間一般の通念を常々苦々しく思っていたので、こう切り返した。「悪い奴に因縁つけたのお」。I氏に仕込まれた決めゼリフである。こういうセリフを吐く学院生がいることに相手は少なからず驚いたとは思うが、怯みは見せず、「来い」と先に歩き出した。僕も後ろから付いていった。歩きながら、I氏に仕込まれた喧嘩のやり方を反芻していたことはいうまでもない。
無言のまま歩いた。旧道沿いに高須方向へ100mほど行くと、右手に国鉄の踏切がある。それを渡るとすぐ左側に鳥居と石段が見えた。二人はその石段を上り、人気のない境内に踏み入ると向き合って立った。
そうして、今まさに一対一の喧嘩が始まろうとしたその時である。先ほど己斐駅で別れたはずのO君が、まだ駅構内にいた3人ほどの友人に声をかけ、連れ立って神社の石段を登ってきたのである。T君、M君がいたと記憶する。みんな上品な友人たちだから喧嘩に加わろうというわけでは勿論ない。ただ十メートル以上も離れた場所に並んで立って、僕を見守ってくれたのである。これには敵さんも気合をそがれた模様だ。僕の昂った気分も急速に弛緩して、しばし両者に逡巡の時間が流れた。
そのとき、息を切らしながら、一人の中年男性がやってきた。にらみ合う二人の間にいきなり割り込み、「わしは少年補導員じゃ、またやっとるんか。ちょっと付いてこい」と言い、なんと僕には一瞥もくれず、相手の〇高校の生徒だけを拉致していったのである。
拍子抜けした。と同時に、学院生と〇高生のトラブルを見て、事の経緯を何一つ訊くことなく一方的に〇高校生に非があると断ずる補導員の偏見に、やはりそうかという複雑な思いがあった。
そして、それよりもなによりもO君たちの友情が心にしみた。忘れられない思い出である。
拙稿をここまで書き進めて、今更ながら実感することがある。ここに登場してもらったM君もT君もすでに故人なのだ。改めて名簿をめくれば、多くの同級生が亡くなってしまったことが知れる。喜寿ともなれば然もありなん。驚きはない、深い感慨があるばかりだ。・・合掌。
僕とていつ死んでもおかしくない大病持ちである。
わが来し方を振りかえれば、煩悩にまみれ、恥多き人生ではあった。しかし今の心境たるや、「あー、面白かった(吉田拓郎の最終アルバムの銘)」の一語に尽きる。ありがたいことだ。屈託はない。いつ迎えが来てもうろたえず、静かに逝くだろうと思う。
「死ぬる時節には死ぬがよく候 良寛」
願わくは余生の日々も、少しでも面白い充実した一日一日にしたいものだ。
「風はきよし月はさやけしいざともに踊り明かさむ老いの名残りに 良寛」