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悠山亭日記「邑智歳時記」

平成十九年春、御縁をいただき帰郷しました。翌年、矢上の町はずれに草庵を結び「悠山亭」と名付けました。名の由来は陶淵明の詩「飲酒」にある「悠然として南山を見る」からもらいました。ただ我が家の場合、南山ではなく東山、東の正面に鎮座する冠山(かんざん)なのですが・・。

爾来十八年、このたおやかなる大自然に包まれ、四季折々の山川草木に癒されながらその贅沢に感謝して暮らして参りました。とりわけ、令和元年にノルディックウォーキングにはまってからというもの、その感謝の思いは一層強くなりました。


昨年の春のこと、冬枯れて寒々とした山々が一斉にはじけんばかりの新緑に覆われ、その中に散りばめられた山桜の華やかな様をながめつつ、ため息交じりで歩いておりました。そのときにふっと、「余生とは歩くことらし山笑ふ 基吉」という句を思い出し、あまりのピッタリ感にいたく感動したのです。私も日々歩くたびに風景や草花に心を奪われていたので、これは俳句に詠い込んでおこうと思い、下手な俳句をしたため始めた次第です。

俳号を悠山と申します。

水無月  青田風白鷺ひとり動く無し  石原悠山

書斎の前に田園が広がっています。いつの間にかすくすく伸びた稲の葉が風に吹かれ、表を見せては濃い緑、裏を見せては薄緑、ふた色の縞模様となって冠山のほうへと流れていきます。その視界の真ん中に白鷺が舞い降りました。そしてそのままいつまでも坐禅者の如く不動です。餌を物色する気配は皆無です。無我の境地か・・

私は就寝前に坐禅を打ちますが、なかなか無我境に入れません。きわめて短時間「今、無我だったかな?」と覚えることがありますが、すぐに通り過ぎてしまいます。未熟なり。


文月  冠山の五倍あるらん雲の峰  石原悠山

猛暑の候、昼前になると毎日のように、冠山(かんざん)から入道雲がむっくりむっくりと伸び上がり、あたかも山が立ち上がらんかのようです。かかる大自然の挙動に日々感嘆できるのもこの地に暮らしたればこそならん。

雲の峰とは入道雲を指す季語です。入道雲にはこのほかにも土地土地で独特の呼称があるとされ、ある歳時記(NHK放送用語委員会編)には、彦太郎(九州)、丹波太郎(兵庫)などと並び石見太郎(島根)の記載があります。

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文月  夏雲やこぞ石見なり赤瓦  石原悠山

赤瓦の家並みは石見地方では当たり前の風景ですが、齢を重ねるごとにその美しさにうっとりしています。遠い旅先でも思いがけず石州瓦の町並みに出会うことがあり、石見人としては嬉しく誇らしいものです。

「赤の街道を往く(石州瓦工業会発行)」によれば、山陰両県、広島県北部や長門地方に加え、戦国時代、江戸時代に陰陽を結んだ街道筋の宿場町(備中吹屋、勝山、美作新庄など)に見事な赤瓦の町並みが残り、さらには北前船の寄港地だった町々や、その終着地の松前藩領などの古刹や旧家に多くの赤瓦屋根が継承されているそうです。


葉月  芝に子ら息ころし居り流星群  石原悠山

 昨夏、ペルセウス座流星群とやらが8月12日の深夜から翌未明にかけて極大時間帯を迎えるとの予報がありました。おりしも帰省中のあの騒々しい孫たちが、静かに庭の芝生に並び寝ころんで、星が流れるたびに一斉に歓声を上げたる様の、いとをかしかりき。


正月  朝焼けて冠山崇し年新た  石原悠山

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# by ohchi-ishihara | 2025-01-01 00:01 | 悠山亭日記

悠山亭日記7 「教えやいこ 助けやいこ」の巻

邑智病院だより54号から

このたび新本館棟の落成を記念して石碑が立てられ、「教えやいこ 助けやいこ」と刻まれました。この碑文は石橋良治病院事業管理者のご提案によるものですが、実はひと悶着あったのです。当初、管理者の原案は「教えあいこ 助けあいこ」でした。邑南町日貫生まれの私は、当地の方言では「あいこ」ではなく「やいこ」であると刷り込まれているので、なかなか折り合いません。邑智郡生まれの職員に片端から質問してみましたが、なんと、地元人の間でも意見が分かれるのです。結局決着がつかぬまま、石橋管理者が、揮毫者である私に折れて下さり表記の銘となった次第です。

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さて、職場として最も大切なことは「楽しい職場」であることだと思います。そのためには、職員同士の「和」がなにより重要です。その「和」を乱す最大の要因が「不公平感」です。「私たちはこんなに忙しいのにあの人たちは暇そう」という空気が職場に不和をもたらし、組織全体の活力を毀損します。この不公平感を解消する手段が「助けやいこ」、つまり余力のある職員は忙しすぎる部門を手伝うということです。

とはいえ病院職員の場合、それぞれに専門性があり、専門の壁を越えて助けあうことが難しい面があります。そこで「教えやいこ」が必要になります。それぞれの職種には、その有資格者にしか許されない業務もありますが、職種間で法的資格や守備範囲が重なる部分もあります。採血は看護師も検査技師もできます。超音波検査は検査技師も放射線技師もできます。医師の業務についても特定の研修を経て資格を取得した看護師が医師の業務の一部を引き受けることができます。このようにして、余力のあるスタッフは多忙な部門を手伝うという職域文化を「教えやいこ助けやいこ」を合言葉に推進してきたわけです。

平成25年からは「邑智病院経営自立プロジェクト」を開始し、この「助けやいこ」を数値化、可視化しました。毎月、Aという部門が、Bという部門をどれだけ手伝ったかを数値化し、B部門の成果の一部をA部門の成果に繰り入れる。この数値を病院の全部門について、月々の全体会議で発表するのです。この「自立プロジェクト」が軌道に乗ったことで、業務の均等化が図られ、経営の改善にも大きな効果がもたらされました。

さらに「教えやいこ 助けやいこ」は「帰属意識」の向上という、得難い宝のような効果をももたらしたのです。

ある組織の活力は「構成員のいかほどが組織への帰属意識を持つか」に規定されます。病院でも、会社でも、学校でもあるいは市町でも国家でも、どのような組織でも同じです。

余談ですが、半世紀前の我が国の驚異的高度経済成長、その要因は何だったのか。私は、「終身雇用・年功序列」をよりどころとする「帰属意識」であったと思います。「わが社」を「我が家」と思う心、俗にいう「愛社精神」です。多くの経営者も「社員を家族と思う」理念を持っていました。そういう企業文化が我が国を経済大国に押し上げたのです。そのことを最も理解しかつ怖れていたのは、日本の台頭を危惧する米国でした(ジャパンアズNo1E.F.Vogel1979)。その後、米国の圧力と、米国かぶれの市場原理主義者たちによって、この誇るべき我が国の企業文化がとことん貶められ、失われた30年といわれる衰退をもたらすことになってしまったのです。

重ねて申し上げます(年寄りはくどいのです)。邑智病院には宝があります。職員一人一人の帰属意識、病院を我が家と思う心、これこそが病院の宝であり、地域貢献、健全経営の源泉です。山口清次病院長のもと、この文化が続いていくことを心から願う老兵であります。


# by ohchi-ishihara | 2024-11-11 21:13 | 悠山亭日記

名句鑑賞 

 前書き  


名句とは私が心を動かされた俳句のことである。

句は「基本季語五百選 山本健吉 講談社学術文庫」から拾った。

この本には三万あまりの俳句が収載されている。私は半年かかって、歳時記、広辞苑、古語辞典、漢和辞典と首っ引きで、これら三万句すべての解釈にいどんだ。

 そしてその中に、心底琴線に触れる珠玉の俳句二百首ほどを掘り当てたのである。これらは、私の残りの人生における座右の宝物となるであろう。

これら、私にとっての名句について、いちいち鑑賞文を書き添えるなぞ野暮の骨頂と思うが、なかにどうしても書きたくさせる俳句が二十首ほどあった。

この一句をこう読み解くのは私だけであろう。その読み解きを披歴すれば、「得たり」と得心し共感する読者が少しはいるやもしれぬ、そう思うと書かずにはおれなくなる。そういった(たぐい)の俳句二十首について、思うたところを書き記しておく次第。



余生とは歩くことらし山わらふ  清水基吉

余を俳句の世界へ誘い入れた座右の一句である。

当初「山笑う」を、「夏の雲」とか「あかとんぼ」などと、季節ごとにいろいろ置き換えてみるのも一興か、などと思ったこともあるが、繰り返し味わうほどに、ここに置くべき季語は「山わらふ」以外にはないと納得した。

「山わらふ」は特別な季語である。私からではなく、山のほうから先に挨拶してくれるのである。こういった季語をほかに知らない。

余はほぼ毎日歩く。山川草木、花鳥風月を愛でつ癒されつ、毎日二里ほどを歩く。歩けばとりあえず一日が充実するのだ。そうして、「喜寿を過ぎたが、まだこんなに歩ける」と毎日感謝しているのである。

なるほど、「余生とは歩くこと」とは言い得て妙なり。

「山わらふ」は、そういう私を寿(ことほ)ぎ祝福してくれているのである。

私は受け手であり、大いなる自然の過客に過ぎない。

これ以外の季語を置くことは考えられない。




みちのくの春田みじかき汽車とほる  実

眼を閉じて低吟すれば、昔、春に訪れた遠野盆地が思い浮かぶ。広くたおやかな田園風景の中、三両ほど連結した汽車が釜石線をとことこと通っている。はるか彼方には、まだ雪をたっぷり頂いた早池峰山が白く輝いているではないか。




春の水わが歩みよりややはやし  予志

雪解けとともに、田へ引き入れる水路の掃除や手入れが始まる。それが済むと、それまで閉められていた堰が開かれ、水が勢いよく水路へ導かれる。

春の水である。

今年も間もなく田植えの季節がやってくるのだ。

ある日、春の水に沿って歩いていたら、この句を思い出した。そこで、枯れ葉を一枚放り込んで確かめてみたのだ。すると、なるほど「わが歩みよりやや早し」その通りであったので、思わずニンマリしてしまった。




袈裟がけに青山肌に大雪渓   福田蓼汀

 詠み人は、山道を歩いていて突然この風景に出会い、仰天したのだ。峠の切通しを抜けたとたんか、あるいは振り向きざまだったか。舞台はどこなのだろう

 日本三大雪渓、つまり白馬、剣、針ノ木のいずれかか。飯豊(いいで)山も有名だが、訪れたことがないのでこれはわからない。三大雪渓だとすれば、まず、雪渓の先頂まで蟻の如く登山者が連なる白馬岳の風情ではないだろう。剣岳はまるごと岩の山だ。剣沢大雪渓の両側は切り立った断崖絶壁で、青山肌などどこにもない。そこで、この句が詠まれたのは、残る三大雪渓の「針ノ木岳」だと思うのである。

詠み人は種池小屋を目指して扇沢から柏原新道を登り始め、樹林帯をぬけたところで振り返った。

するとどうだ。深い谷を隔てた対岸に、針ノ木岳が天に向かって聳え立ち、その青山肌に袈裟懸けに、一刀両断された大雪渓が眼前に展開したのである。その時の仰天、感動たるや尋常ではない・・ということが容易に実感できる。何を隠そう、これは私の体験でもあるのだから。




城のごとき船よぎりゆく露台かな  川合玉枝

関門海峡の最狭部、壇ノ浦あたりの宿の縁側に、詠み人は居るとみた。

対岸の門司は指呼の間だから、行き交う船はすぐ目の前を通過する。右も左も山が海へとせり出しているので、視界に占める海の角度は広くはない。従って、船が巨大だとその全貌を一時に捉えることはできない。山の端からいきなり、大きな船首がぬうっと現れ、次いで胴体が、そして船尾がゆっくりと、逆潮であればなおの事ゆっくりと、人の歩みほどの速度で、反対側の山影へ消えていくのである。




秋雨や線路の多き駅につく 中村草田男

駅は鳥取県の米子駅ではないか。山陰では松江市、鳥取市などとほぼ同規模の中都市だが、駅の線路の多さは他の二市を大きく凌駕する。

詠み人はおそらく、伯備線の特急列車で雨の中何時間も陰鬱な山間部を揺られてきたので、平野に出た最初の駅で、その予想外の大きさに少し驚いたのだろう。

町の大きさと不釣り合いに線路の多い駅としては、ほかに新津(新潟県)、米原(滋賀県)、鳥栖(佐賀県)などが思い浮かぶが、愁雨の山間部の長い道中との対比を印象させるのは、米子駅だろう。




霧ながら大きな町へ出でにけり  移竹

 大きな町というのは釧路だろう。霧に覆われる日が多いことで知られる。道東一の都会だが、すぐ周囲には手つかずの広大な大自然がひろがっている。

札幌方面からの旅人ならば、帯広を過ぎると町らしい町は途絶え、寂寥とした風景の中を、暮れてからであれば、漆黒の闇の中を、延々と何時間も揺られてくるのである。そういう道中との落差が大きいので、町へ出たときの賑わいが意外なほどの驚きをもたらしたのだろう。しかも町は霧に包まれ幻想の世界だ。




百千鳥(ももちどり)(めくばせ)あちらこちらかな  茅舎 

百千鳥は、「いろいろの小鳥が野山や森で群鳴するのを言う(山本健吉)」春の季語だそうだ。

電線や枯れ枝に小鳥たちがたくさん集まり、「かわいい娘はおらんかな?」ときょろきょろ物色したり、美形を認めてじっと凝視したり、ウインクしたり、などという、まあのどかな春であることよ。




島に東風(こち)バス待ち(どき)の手打ち蕎麦(そば)  桂郎

余は蕎麦には少々うるさい。自分でも打つくらいだ。うるさいぶんソバの地理や歴史にも少々詳しい(以下カタカナ表記のソバは植物名、漢字表記は料理名、ひらかなは両者を含む)。

この俳句、(かみ)五を「島」と発し、(しも)五を「蕎麦」と括れば、余の推理では、その島は対馬ということになる。

ソバの原産地は中国雲南省あたりとされ、我が国へは、朝鮮半島から対馬経由で伝わったとする説が有力であり、対馬は、現在も対州ソバと呼ばれる在来種が伝わる、いっぱしのそば処なのである。

さて、「東風(こち)」とくれば菅原道真を匂わせる。詠み人は東方に郷愁があるのだろう。ならば、島は西国だ。これも対馬に附合する。

バス乗車の前に腹を満たしておきたいのは、かなり長時間のバス旅になるからだろう。大きな島なのだ。ちなみに対馬のバス時刻表をみると、対馬の北の玄関「()()(かつ)港」から「対馬やまねこ空港」まで約二時間、島の中心市街「厳原(いずはら)」までだと二時間半もかかる。なるほど大きな島なのである。昼食はまだだから、腹ごしらえは必須だ。それも、できれば名物の対州そばと行きたいところだが、なんとバス停のそばに手打ち蕎麦の暖簾が見えるではないか。よし、食っていこう・・ということなのである。

というわけで、句が詠まれた舞台は、そば処として知られる、西国の、大きな島、すなわち対馬なのである。以上、そばにうるさい余の推論である。




うららかや猫にものいふ妻の声 草城

平和で穏やかな家庭風景である。

あまりに平和で、次なる場面展開にかすかな不安を覚えるほどだ。

不安が杞憂でありますように。




炎天の遠き帆やわが心の帆  山口誓子

余の青春はヨットと共にあった。冬場以外は毎週末のように、春夏の長期休暇中もほぼ全期間を広島の宮島周辺の海で過ごした。

一年以上に亘ったバリケード封鎖中も、学内の喧騒から距離を置きたくなったときなど、海に出たり、艇庫の桟橋で友と飲み明かしたりしたものだ。海はいつも余を包み込んでくれた。

あれからはや半世紀以上の歳月が流れたが、真夏の海に遠き帆を見つければ、そのたびに、胸が熱くなるのである。

この句には一目で引き込まれてしまった。

ところで、これは余談に過ぎないのだが、誓子の暮らしぶりをよく知る山本健吉がこの句を解説している。それは、余の鑑賞とは全く次元が異なるものだ。以下にその抜粋を記す(俳句鑑賞歳時記)。

「長い病気療養に横たわる作者は、出歩くことなく毎日病床から、一点釘付けになっていて、・・(中略)今や自分の望みの向こう側なるものを、乾いたことばでつぶやく・・『わが心の帆』と。」

ここで誓子が見ていたのは帆掛け舟だという。ヨットではない。

絵画にしろ、詩文、俳句にしろ、一旦作者の手を離れたならば、その作品は独立した一個の生命体となり、作者の意向や事情とは無関係に、鑑賞者と交感する。芸術とはそういうものだろう。

どう鑑賞しようが、鑑賞者の自由だ。この健吉の解説に出会い、今更ながらそう得心した次第である。

ところで、解説の役目とはなんなのだろう。




月見草はなればなれに夜明けたり   渡辺水巴

月見草は、俳句界では待宵草とほぼ同義。待宵草は「いとしい人を待つ」含みを持つ。

待宵草と詠めばよいものを・・、いやいや、それが俳句なのだ。




短夜(みじかよ)の空の(えん)なるうすぐもり 孝作

短夜は明けやすい夏の夜を惜しむ気持ち。ことに後朝(きぬぎぬ)の歌としてしばしば歌われた(山本健吉基本季語五〇〇選)。

後朝(きぬぎぬ)とは、男女が共寝した翌朝(新潮国語辞典)。

「空の艶なる」は、「お天道さんの粋な計らい」との謂いや。




短夜(みじかよ)(くし)一枚や旅衣   汀女

この妖艶な一句には、正直どぎまぎした。そこで汀女の他の句も百ばかり渉猟してみたが、これ以外には、かくもときめく句はなかった。

 「台所俳句作家」と言われた汀女にしては例外的な冒険句だろう。

「身に着けているものは櫛だけ」とはいやはや・・




世にも暑にも寡黙をもって抗しけり  安住敦

近年、気象や地政に暗雲が立ち込めている。

人類がもたらしたこの事態を制御するのは人類の智慧でしかなかろうに。


老兵は、寡黙をもって去り行くのみなるや。

子供たち、若者たちと、生きとし生けるものに、幸いあらんことを・・




天地(あめつち)のこのとき(わか)し田を植うる  遷子

「天地」は、日本最古の文書(もんじょ)の冒頭に置かれた二文字である。

古事記は「天地初發之時(あめつちのはじめてひらけしとき)」で始まるのだ。

開かれし天地はやがて瑞穂の国となり、春には若返り、秋には稔りをもたらし、冬は眠り、春にはまた再生する。季節は巡り、今年もいつもと同じように田植えができることを喜び、感謝し、寿ぎながら暮らしが営まれてきたのである。

田園に暮らしてこそ実感できる知足の歴史だ。




割烹着ぬぐとき時雨(しぐれ)ききにけり  真砂女

作者は小料理屋の女将(おかみ)だろうか。瀟洒(しょうしゃ)なこじんまりした店だといいと思う。

お客の対応や調理にかまけて、店仕舞いまで外の雨に気付かなかったのだろう。品よく着こなされた着物の割烹着姿が色っぽい。こんな粋な句を詠むとは、感性豊かな女将なのだろう。ぜひとも訪ねてみたいものだ・・・と、この句を反芻(はんすう)していると、そんな想いが勝手にどんどん広がっていくのである。

 そこで、それまであまり馴染みのなかった鈴木真砂女について調べてみた。

私の想像はすべて当たっていた・・どころではない。

真砂女は、私の想像を超えた、危ないほど魅惑的な女性であった。そしてなにより、数々の魅惑的な俳句の詠み人であったのだ。

お店は銀座にあり「卯波(うなみ)」といった。こんな店があったら、常連になるほど上京のたびに通い詰めたろうに、残念ながら、店は()うの昔になく、明治生まれの真砂女も故人である。

店の名前は自作の句「あるときは船より高き卯浪(うなみ)かな」に由来するそうだ(ウイキペディア)。この卯月の海は故郷の外房鴨川だろうか、「のたりのたりとした春の海(蕪村)にも突然、日常が揺らぐほど大きな波が打ち寄せることがある」と詠んだこの句は、恋多き波瀾万丈の彼女の生涯を想わせて深い。




雑踏に捨てし愁ひや柳散る   真砂女

 小料理「卯浪」は銀座一丁目にあったという。詠まれたのは柳通りだろうか。

背景に、BGMが聞こえる。ちあきなおみの「赤い花」が流れている。





ひとり来てお盆の過ぎし墓を掃く  清崎敏郎

人目を忍ぶ、訳ありの墓参なのだろう。故人を偲び、時に墓標に話かけ、こみ上げる思いを押し殺しながら、黙々と・・掃いているのか。




爽やかに屈託といふもの無しに  高浜虚子

この句は、「悟り」への憧憬(しょうけい)を詠んだものと解する。

「悟り」とは、最終的な屈託たる「自我と生死(しょうじ)への執着(しゅうじゃく)」から解き放たれた、「明鏡止水」というべき境地のことであろう。

俳句の道も掘り進んでゆけば、そういう境地に近づけるのではないかという思いが、虚子にはあったのかも知れない。




名句鑑賞シリーズはこの一句で閉めたいと思う。


# by ohchi-ishihara | 2024-11-01 00:43 | 名句鑑賞

近年の我が国の医療政策と公立邑智病院

回顧録(公立邑智病院40周年記念誌より)


はじめに

公立邑智病院開院40周年誌への寄稿にあたり、我が国の医療をめぐるここ数十年の歴史を振り返り、その時代状況の中で、わが邑智病院がいかに翻弄され、また、いかに乗り越えてきたかを記録しておきたいと思います。話の性質上、ややもすれば手柄話になりそうで、そうならぬよう極力配慮したつもりですが、もし目障りな表現があれば我慢して読んでいただければ幸甚です_(._.)_

新自由主義下ですすんだ医療費抑制政策

わが国では1980年代中曽根内閣のころから「新自由主義・市場原理主義」を基本におく政権が数多く登場し、そのたびに診療報酬マイナス改定、大学医学部の定員や病院病床数の削減など医療関連支出を圧縮する傾向が次第に強くなっていきました。とりわけ2001年から5年間の小泉内閣においては「聖域なき構造改革」「官から民へ」の掛け声のもと、医療分野も聖域ではないとして大ナタがふるわれました。5年間で1兆円以上の医療社会保障関連予算削減、診療報酬-3.16%という史上最大のマイナス改定、などの強力な医療費抑制政策が採られ、7割の病院が経常赤字に陥るなど医療界全体が苦しい状態におかれていました。

新医師臨床研修制度がダメ押しとなった医療崩壊

 この追い込まれた状況において「医師臨床研修義務化(2004年)」がダメ押しの引金となり一挙に「医療崩壊」と呼ばれる状況がもたらされたのです。この研修制度導入により、若い医師の多くが、研修内容の質や生活の質に惹かれ、大都市の有名病院に集中するようになりました。また、勤務内容がきつい、訴訟リスクが高いなどの診療科が敬遠され、産科や外科系を志望する医師が激減しました。その結果全国的に極度の医師偏在現象がおこり、多くの地方病院が医師不足から閉院や診療内容の縮小を余儀なくされました。島根県では、出雲医療圏、松江医療圏の医師数が全国平均を大きく凌駕する一方で、わが太田圏域など、他の5圏域では全国平均の半分程度という極度の医師偏在がもたらされ、石見部では多くの病院が、救急診療やお産を取りやめ、あるいは閉院に至った病院もありました。

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このような時代状況のなか、邑智病院も開院以来最大の難局にありました。医師不足、看護師不足が深刻となり、それまで80%以上で安定していた病床稼働率が2006年度は48.4%にまで急落し、その存続があやぶまれる状況に陥っていました。

邑智病院着任といくつかの改革

このような中、石橋良治病院事業管理者の要請にお応えし2007年度に病院長を引き受けました。就任にあたり日高武英君を事務部長として採用することをお願いしました。

着任後、どん底状態にあった邑智病院の経営立て直しにむけて様々な戦略を講じました。職員満足重視、職種を超えての相互支援(教えやいこ、助けやいこ)、3K撲滅戦略、敷地内ヘリポート整備や県ドクターヘリ事業開始、人材確保戦略など、これらのことに取り組んだ結果2011年度には6年ぶりに経常黒字を達成しました。特筆すべきは、この間の石橋管理者や議会議員諸氏の、病院に対する無条件のご支援です。どれほど助けられたかわかりません。満腔の感謝あるのみです。

このころまでの経緯については、先の「病院開設30周年誌」に詳記したので割愛し、その後の経過について記します。

2011年度、なんとか黒字を達成できたのですが、医療をとりまく政治状況・社会情勢は相変わらず厳しさを増すばかりで、安穏としていられる状況ではありませんでした。健全経営をゆるぎないものにする基盤が必要でした。そして、今日に生きる二つの病院経営基盤を確立するに至ったのです。

経営基盤その1:繰り出し基準のルール化

一つは、日高事務部長が発案し、身命を賭して3町行政の合意を取り付けた「繰り出し基準ルール化(2012年~)」です。日高君の功績は枚挙にいとまがありませんが、最大の功績はこれだと私は思っています。公立病院は、救急医療や周産期、小児医療など地域に不可欠な医療であれば、赤字を承知でやらなければなりません。従来、こうして生じた医業収支の赤字を3町が年度末に補正予算を組んで(上から目線で)補填するという財政運営がなされていました。しかしこのやり方では収益や支出の目標値を設定しにくいことに加え、各現場の経営努力が財務諸表で読み取れないのでモチベーションがわかないという課題を抱えていました。これらの課題をクリアする新たなルール作りに挑んだのです。

国(総務省)は、公立病院がその使命として取り組むべき不採算分野をカバーすることの補填分を、繰り出し基準を定め交付金として措置しています。ただ、これは紐づけされたお金ではありませんから使途は町行政の裁量に任されます。そこで邑智病院では、日高君を中心として3町の財政課長などと議論を重ね「国が示す繰り出し基準の算定法」のルールを作り、そのルールに基づいた全額を病院に繰り入れる、その代わりに年度末に赤字が計上されても3町は補填しない、ということにしたのです。このしくみにより、病院の財務が可視化され、現場の経営努力がわかるようになったことで、目標設定や効果判定ができるようになった、そのことが、以下に述べる「病院経営自立プロジェクト」の成果にもつながったと思います。

経営基盤その2:経営自立プロジェクト

二つ目の病院経営基盤は「経営自立プロジェクト」です。

経営不振のさなか病院長に就任し、出口の明かりを求めて幾人かの経営コンサルタントに意見を求めたことがありましたが、いずれも儲け主義丸出しのあざとい下品な提案ばかりでした。そういうなかで出会った「京セラ式病院経営手法」は出色でした。職員は病院の財産、人件費には手を付けない、余力のある現場は多忙な部署を支援する、トップダウンではなく現場からの提案を大事にするなどの哲学はそれまで邑智病院でも大切にしてきた考え方でした。

201210月に日高事務部長と二人で、京セラ方式で経営健全化に成功した滋賀県公立甲賀病院を視察し、院長はじめスタッフの説明に納得、これでいこうと決めました。

20131月、職員一同とともに京セラ方式のキックオフ宣言をおこない運用を開始しました。3年目には京セラとの契約が終了し、その後リーダー的職員が中心となって独自にブラッシュアップを重ね「邑智病院方式経営自立プロジェクト」として今日に至っているわけです。

職員一丸となって取り組んだ、「経営自立プロジェクト」は確実に成果を現し、2011年度に黒字化した経常収支は2014年度あたりから安定的な黒字基調となり今日(2023年度)に至っています。

このように様々な戦略が功を奏し、なんとか難局を切り抜けてきたわけですが、その一方で、医療を取り巻く政治状況や社会情勢は一層厳しさを増し、油断できない時代が続きます。

恐るべし、地域医療構想

20146月に「地域医療構想(医療介護総合確保推進法)」が公布され、その中で「各医療圏ごとの10年後、20年後の医療需要量予測を国が示し、その予測に基づいて病床数を決めるという方針が示されました。20156月には官邸発の報道発表で、「この計算法に基づくと、島根県の病床数は30%、太田圏域では65%が削減されることになる」と公表されました。

地域医療構想は紛れもなく医療分野における「口減らし」構想です。しかも、全国の地方自治体において、人口維持のために必死の取り組みがなされる中、無定見にも人口減少を前提とし、それを先取りする形で医療をスリム化することになる地域医療構想は、地方創生の努力を水泡に帰すものとなることから、強い反対姿勢を表明する必要を感じました。そして、全国自治体病院協議会や日本病院会などでシンポジウムや講演、機関誌への寄稿など、あらゆる機会を通じて批判を展開しました。さらに発信力を強化するため、県内各医療圏の基幹病院の院長の協力を取り付け20152月に日本病院会島根県支部を20番目の支部として発足させ、私が支部長に就任しました。支部長は理事会に参加し、厚労省などの担当者と直接意見交換ができる、そこを狙ったのです。

一層強まる公立病院への締め付け

しかし国の医療に対する締め付けはさらに強化されていきました。20199月に厚労省から驚くべき報道発表がなされました。「全国の非効率な公的病院は、再編・統合などを検討すべし」というもので、公的病院424施設(全施設の25%)を実名で公表し、「検討結果を2020年秋までに報告せよ」というものです。邑智病院は含まれませんでしたが、島根県では4病院、広島県では13病院が挙げられていました。この暴挙ともいうべき報道発表に対し、全国知事会が直ちに抗議のステートメントを発出しました。

かかる医療分野における安倍内閣の姿勢の背景は「骨太の方針2015」をみれば如実に理解できます。「方針」に曰く「医療費・社会保障費は歳出抑制の本丸」「国の社会保障給付を圧縮すれば、個人や企業の保険料の負担が軽減されることで、消費や投資の活性化につながる」「医療・介護の分野で民間のシェアが上がれば、課税ベースが拡大する」等々。

そしてこのような医療政策が続いた結果、小泉政権発足時の2001年に1007施設あった公立病院は2020年には853施設へと15.3%減少しました。ここ20年ほどの間に、我が国の医療提供体制はぎりぎりのところまでスリム化がすすめられたのです(特に公立・公的病院)。

医療に加え、保険行政も合理化対象とされ、保健所の数も半数に減らされていました。

このような中で、新型コロナのパンデミックに襲われたのです。コロナ禍に曝されたとき、我が国の医療や防疫の体制がいかに脆弱化していたか、いかに危機対応能力が疎かにされてきたかが露呈されました。そして、それまで強硬に進められてきた「地域医療構想」は、コロナ禍のため一旦足踏み状態におかれることになったのです。

新型コロナパンデミックで国の方針は?

20199月に厚労省から発表された「全国の非効率な公的病院424施設は、再編・統合などを検討し、その検討結果を2020年秋までに報告すべし」という通告も、一旦先送りされることになりました。そしてコロナ渦中の20202021年には、それまでとは打って変わって、医療体制強化のために相当額の財政出動が行われました。ただし、財政出動はコロナ対応に特化した支出が中心であり、コロナ禍が過ぎればまた強力な医療費抑制政策が再燃することになるのだろうと思われ、楽観視はできませんでした。

近年の我が国の医療政策と公立邑智病院_d0132664_23562758.jpg

ともあれ今(20045月)のところコロナ禍を受けて政府の方針は「新自由主義・市場原理主義一辺倒」のかじ取りからやや様変わりしたように見受けられます。

「骨太の方針2020」では今回のパンデミックのような事態を「新たな日常」と位置づけ「それに対応できる包摂的な医療提供体制の整備を進める」とされ、「この方針」を踏まえて厚労省や総務省では、局長通知や審議会報告において「地域医療構想」や「新公立病院改革ガイドライン」などの方向性を「改めて再検討すべき」と仕切り直しの方針が示されました。今般のコロナ禍において、発熱外来の開設、コロナ患者の入院や集中治療などの困難な役割を担ったのはほとんどが公立病院・公的病院だったからです。

公立邑智病院についていえば、全国的に見れば多くの病院が風評被害などの懸念からコロナがらみの患者の診療にしり込みすることが社会問題になっていましたが、邑智病院では山口病院長のもと、組織を挙げて、コロナ疑い患者の検査/外来・入院診療、ワクチン集団接種の体制整備および実施などのすべてにおいて、町や県の行政に積極的に協力し、あるいはリードしてきました。

ここまで述べたように、コロナ禍にみまわれとりあえず足踏み状態にとどまってはいるものの、我が国ではここ数十年、新自由主義的なかじ取りのもと、医療を市場原理のなかに放り込み、米国のような営利産業化を目指していたことは間違いありません。医療について公の負担部分をできるだけスリム化し、医療の担い手を公から民へと次第に移行させる政策です。

その結果、不採算であっても地域に必要な医療を提供するという公立病院の使命を担い続けることが非常に困難な時代状況が続いたわけですが、そのような中にあっても、邑智病院は多くの工夫と努力で泰然と乗り越えてきたのです。

総務大臣表彰を受ける

そして2021.10.6には優良自治体病院総務大臣表彰に至りました。

乗り越えることができたのはひとえに職員一人一人の邑智病院を愛する心(帰属意識)の結集であったと思います。

この心がある限り、社会経済状況や国のかじ取りがどのようであろうとも、邑智病院は立派に乗り越えていきます。

幸いにも、〇年には、山口清次先生が、島根大学や日本小児科学会などでの名誉ある大きなお立場をしり目に、田舎の医療体制確保に貢献したいという情熱をもって邑智病院院長に就任されました。そして邑智病院はさらなる高みへと発展し、今や全国にゆるぎない名声を博すようになりました。

今後も山口病院長のもと、職員同士がお互いのやりがいと誇りを尊重しあう暖かい職場を発展させ、患者さんを家族と思い、良質で親身な医療を提供する病院として、邑智病院が末永く元気であり続けることを確信します。


# by ohchi-ishihara | 2024-10-01 00:00 | 医療/邑智病院

令和六年 石原悠山句集

令和六年葉月のころ


山寺やあさぎまだらの妖しうて

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            四国六十番札所横峰寺への道すがら

八月や尾根越ゆ雲の滝静か


七重八重(やま)(なみ)青し喜寿の旅

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            石鎚山頂にて


夏雲や旅の終わりの連絡船                            


秋隣り草焼く煙鐘の音


今生(こんじょう)黄金(こがね)に染むる向日葵(ひまわり)

令和六年 石原悠山句集_d0132664_21562289.jpg
             吉和村 十方山から下山して 

芝に子ら息ころしおり流星群


秋あかね瀬音うれしや吾は喜寿



# by ohchi-ishihara | 2024-08-18 22:08 | 俳句集 石原悠山

石原晋 名誉院長のブログ


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