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粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)

邑智郡旧田所村の偉人「田中梅治」の事績については、日本民俗学の泰斗、宮本常一の「忘れられた日本人(岩波文庫)」に詳しい。

それによれば、あの日本中の農村が貧しかった大正から昭和の初めにあっても、田所村には大地主も特別貧しい小作人もなく、貧富の格差の少ない県下有数の富裕な村であったという。田中梅治の存在によるところが大きかったのだそうだ。


梅治は、明治末期から大正にかけて、他地域に先駆けて農業組合、信用組合の設立、耕地整理、牛市整備、車道網整備に尽力するなど、村を豊かにすることに心血を注いだのである。一方、私欲に乏しく暮らしぶりは質素であったという。公職を退いてのちは、晴耕雨読、俳句、文筆活動をもっぱらとした。


宮本の「忘れられた日本人」に梅治の著作「粒々辛苦」の一部が紹介されている。「自然の美に親しみつつ、自分の田を耕しつつ、国民の大切の食料を作ってやる、こんな面白く愉快な仕事が、他に何があるか。」にはじまる長文が引用されている。梅治はこの「粒々辛苦」において、そのタイトルのイメージとは正反対に、百姓仕事の面白さ、楽しさ、生きがい、やりがいを語り、読者を惹き付けてやまない。

書かれた時代背景は、農村恐慌といわれた不景気のどん底で「戦争やむなし」との捨てばちな空気感が急速に高揚する大正昭和の端境(はざかい)期である。この時勢における著作であることに深い感銘を覚える。


私は田畑を耕したことがない。四季折々、歩いては眺めるばかりだ。それでも田畑を何年も眺めていると、梅治が記した百姓仕事の面白さも(むべ)なるかなと思われ、羨ましくもなってくるのである。羨んでいてもつまらないので、俳句でも(ひね)るとするか。というわけで、今回のお題は「田んぼ」です。

山里の風景は四季それぞれに美しい。ただし、お世辞にも美しいとはいいがたい一時期がある。雪解けの頃だ。真っ白に輝いていた田畑が数日のうちに薄汚れ、そのおもてに、黒く朽ちた稲の切り株がいっせいに顔を出す。年に一度のみすぼらしい景色だ。だが、まもなく田起こしが始まれば大地が生まれ変わるのだ。このみすぼらしさのなかに、大地再生のパトスが内包されているのである。

浮雲や雪解(ゆきげ)田んぼのあばた(づら)  悠山

 田んぼに水が張られると、その晩から一斉に蛙たちの大合唱が始まる。今年も訪れてくれた楽しい嬉しい騒々しさである。当分の間、夜ごとにぎやかなことだ。

(いで)(かはづ)(さう)づく代田(しろた)かな  悠山

耕人にとって、田植えの出来栄えには(こと)の外こだわりがあるようで、植えられた苗の並びは、縦から見ても横から見ても斜めから見ても、完璧にまっすぐでなければ満足できないのである。この時期、自分の田仕事の出来栄えをニンマリしながら見入っている耕人をよく見かけるものだ。

千条の早苗まっすぐ山裾へ  悠山

去年の夏の(ひでり)はひどかった。田んぼは干からびて伸び盛りの稲が無惨に日焼けて(しお)れている。人々は軽トラに大きなタンクを積んで何度も往復しながら田んぼに水を散布するのだが、傍目には焼け石に水としか見えず、いたいたしくて身につまされた。そんななか、ついに土砂降り雨が降ったのだ。

ひび割れし田に水踊る大夕立(ゆだち)  悠山

今年も、大自然と人々の営みが織りなすすばらしい田園風景につつまれてひととせが流れた。稲刈りが終われば、山里に急に静寂が訪れる。昨日までのにぎやかな農作業風景がうそのようだ。お疲れ様・・である。

(もや)にまどろむ里や冬隣り  悠山


# by ohchi-ishihara | 2026-05-10 17:59 | 悠山亭日記

悠山亭日記11「朋遠方より来たるあり、また楽しからずや」の巻

 (邑智病院だより58号より)                         

あけましておめでとうございます

私は令和6年の夏に喜寿を迎えました。その後今日までの1年半の間、次から次へと懐かしい再会が続き、大いに嬉しい日々でありました。

30年も50年も会うことの無かった友人や従弟妹(いとこ)たちが訪ねてくれたり、私から出かけたりという事が続いたのです。こんなことは長い人生でも初めてのことです。

「ボケたり死んだりする前に一回会おうや」というのが共通する合言葉でした。いわば終活であり、冥途の土産というわけです。

広島の高校時代の親友たち二人が東京と広島から来てくれました。昔は毎日のように、やんちゃをしたり庇いあったりした仲間でした。進んだ道が違ったので、卒業後は会うことがありませんでした。

京都の予備校時代の親友が、滋賀から奥さんと一緒にやってきました。彼とは僅か1年の付き合いでしたが、出会った日から妙にウマが合って、喫茶店に入り浸っては話し込んだ毎日でした。時は巡り、それぞれ大学に合格したので、日貫の我が家へ連れ帰り、親父のおごりで松江のクラブで祝杯を挙げ、京都行きの夜汽車で帰るのを見送りました。その後50年以上会うことはありませんでした。

私が広島市で救急医だったころ、県と市で医療行政を担当していた方二人が、連れだって我が家を訪ねてくれました。当時、ドクターヘリ導入や救急救命士制度新設など、我が国の救急医療体制が大きく変貌する時代で、それらの推進に向けて共に汗を流した同志達でした。

西宮市に住む父方の従弟が、老体に鞭打って自転車でやってきました。案の定、途中で「ばてたあ」と電話があり、軽トラを借りて大朝まで迎えにいきました。

さらに母方の従弟妹(いとこ)5人が神戸に集合し、墓参兼酒宴をやりました。一堂に会したのは初めてで、亡母からの宿題を済ませたような安堵感がありました。

いずれの再会も、瞬時に半世紀の時を飛び越え、大いに楽しい時間でありました。しかしそれは、私としては大変不思議なことであったのです。というのは・・。

私は70歳を前にして病院長を退任しました。医師になってから退任するまでの間、全国に友人や仲間がありましたが、交友はほぼ医療関係者、とりわけ救急医療関係(医師、看護師、救命士、医学界や医療行政)の人たちに限定されていました。

同窓会などはほぼ欠席でした。参加しても業界が違うと話が合わないのです。高校の同窓会に出たことがあります。畑違いの手柄話に互いに辟易したり、出世した旧友に酌をしながら、何がしかのご利益(りやく)を得ようとか、有力者をわが人脈に登録しよう・・というような色気や打算の空気感が場に漂い、「なんだか馴染めんなあ・・」というわけで、以後は欠席です。こうして業界仲間としか付き合いのない状態で何十年も生きて来たのです。

ところが、高齢になるにつれて、諸々(もろもろ)の色気や打算は次第に影を潜めていくもののようであります。「死ぬまでに一回会おうや」と言った友人や従弟妹(いとこ)たちもそうだったのでしょう。わが人生の先行きもそう長くはなかろう、と自覚するようになれば、損得への屈託、生への執着(しゅうじゃく)などが自ずと薄らいでゆく・・それが老成ということなのでしょう。

ここ一年半の、「遠方より(きた)(とも)」達との再会がかくも嬉しいものであったのも、この再会を、先入観なしに、心から素直に「一期一会」の機会と覚えたからだと思います。老成ゆえの境地なればならん。

どうやら、歳をとるということもまんざら悪くはないようであります。

喜寿や良し一期一会と吉書()  悠山

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# by ohchi-ishihara | 2026-01-01 01:00 | 悠山亭日記

遠き潮(うしお)なるわが思春期の断片

「広島学院中学高校5期生会喜寿記念誌」より。「遠き潮」は校歌の歌詞の冒頭

   石原 晋

歳を取るにつれて次第に増幅するある思いがある。中学一年生くらいの少年を見かけるたびに、込みあげてくるあの思いだ。僕は、あんないたいけない年齢で、自分で衣類を洗濯していたのか・・・という感慨である。自分では強がっていたが、母親はどんなにかつらかったろう。

学校でも下宿のアパートでも、おおむね明るく元気に振舞っていたと思うが、それでも夜、寝る段になると母が恋しくてやるせなかった。

当時、郷里石見町へはバスで4時間以上かかったから、週末も帰ることは叶わず、帰省は年に数度の長期休暇に限られた。

五期の同期生120人中、親元を離れて下宿生活をしていたのは7人だったと思う。みんなにも同じような寂しさがあったと思うが、実家に遊びに行ったことがあるS君とも、そういう湿っぽい話になったことは一度も無くて、学校ではみな元気に過ごしていた。

僕は郷里の小学校では神童といわれ、自分でも何となくそう思っていた。ところが、中学に入り最初に受け取った成績通知を見て、その自負は無残に打ち砕かれた。神童から劣等生への急転直下の転落は、12歳の少年にとって、心のありようをも変える大きな衝撃となった。   

衝撃はそれだけでは済まなかった。人生で最も多感な思春期に、島根の山奥から中四国一の大都市に単身出て来たのだから無理もなかった。田舎住まいでは決して体験することのない驚愕すべき事態に次々と出会うことになったのである。

僕が広島に出て来たのは折しも60年安保闘争の年で、広島市内も騒然としていた。

広島に来て間もないある日、宵闇迫る紙屋町付近で大規模なデモに遭遇した。暗天に向かって突き上げた赤旗を先頭に、機動隊ともみ合いながら行進する一団に、12歳の僕は眼も心も奪われた。その場に佇立したまま身震いが止まらなかった。来たるべき自分の青春を垣間見た気がした。そしてそれを畏怖した。

中学入学と同時に、高須のS荘という賄い付きのアパートに下宿した。S荘には兄を含む3人の先輩と、同級のK君の計5人の学院生に加え、S女子大や広島大学の学生などが住んでいた。

アパートの前には公園を隔てて広電宮島線と国鉄山陽本線が並走していた。山陽本線はまだ非電化で、SLに引かれて軽快に走り抜ける何本もの列車に見とれながら、都会に来たことを実感したものだ。

毎朝「特急あさかぜ」の轟音で目覚め、「はやぶさ」の疾走を見送りながら登校した。

夜、勉強しているとチャルメラ屋がラッパを鳴らしてやってくる。このラーメンも初めて知る都会の味だった。賄い飯だけでは就眠時まで腹がもたないので、このラーメンが病みつきになってしまった。当然月の後半には財布が空になり、みじめな思いをした。中学一年生に財布の管理などどだい無理だったのだ。畢竟、授業料の滞納も一度や二度ではなく、親が呼び出されたこともあった。

アパートS荘では広島大学の学生たちが夜ごと一部屋に集まり、おそらく安保闘争に関連した議論で、遅くまで話し込んでいた。僕は中学一年生に過ぎなかったが、彼らの真剣な眼光や語り口から、憂国の士とでもいうようなオーラを感じ、怖かった。

このアパートに、S女子大に通う〇〇ひとみさんという美しい人がいた。行き会うと優しく微笑んでくれて、僕は恋した。あるいは、母性に飢えていたのかもしれない。

ある晩僕は、共同の洗い場で下着を洗濯していた。と、その時ふと人の気配を感じて振り向いた。するとどうだ、すぐ後ろ30cmほどの近さに、そのひとみさんの顔があるではないか。目に涙を浮かべて僕を見おろしている。そしてこう言ったのだ。「晋ちゃん、貸してごらん。私が洗ってあげるから」。そしてあろうことか、やにわにバケツの中の僕のパンツに手を伸ばしたのである。

胸が爆発するかと思った。そのころ僕は〇〇も覚え、何度かの夢精も体験していて、洗濯物にそれらしき汚れも混じっていたので、バケツをしっかり確保し走って自室へと逃げ込んだ。いつまでも動悸が収まらなかった。

高校生になって、己斐に引っ越した。その下宿にはS大学の拳闘部の主将、I氏なる、「葉隠」を座右に置く親分肌の大学生がいて、僕はそのI氏に心酔し、子分のように、銭湯へも広電会館へもどこへ行くにもくっついていた。拳闘というか喧嘩の作法などもずいぶん仕込まれた。

そんなある日その事件はおこった。己斐で電車を降り、友人と別れて一人になった僕に後ろから声をかける者がいる。「おい、お前、電車の中でわしにガン付けとったじゃろうが。ちょっとついてこい」というではないか。あまり柄が良くないといわれた〇高校の生徒だ。こういう場合、学院の生徒のほとんどは狼狽するか、「君子危うきに近寄らず」とばかり透かさず謝ったりするに違いなく、畢竟、舐められているに決まっていた。そういう世間一般の通念を常々苦々しく思っていたので、こう切り返した。「悪い奴に因縁つけたのお」。I氏に仕込まれた決めゼリフである。こういうセリフを吐く学院生がいることに相手は少なからず驚いたとは思うが、怯みは見せず、「来い」と先に歩き出した。僕も後ろから付いていった。歩きながら、I氏に仕込まれた喧嘩のやり方を反芻していたことはいうまでもない。

無言のまま歩いた。旧道沿いに高須方向へ100mほど行くと、右手に国鉄の踏切がある。それを渡るとすぐ左側に鳥居と石段が見えた。二人はその石段を上り、人気のない境内に踏み入ると向き合って立った。

そうして、今まさに一対一の喧嘩が始まろうとしたその時である。先ほど己斐駅で別れたはずのO君が、まだ駅構内にいた3人ほどの友人に声をかけ、連れ立って神社の石段を登ってきたのである。T君、M君がいたと記憶する。みんな上品な友人たちだから喧嘩に加わろうというわけでは勿論ない。ただ十メートル以上も離れた場所に並んで立って、僕を見守ってくれたのである。これには敵さんも気合をそがれた模様だ。僕の昂った気分も急速に弛緩して、しばし両者に逡巡の時間が流れた。

そのとき、息を切らしながら、一人の中年男性がやってきた。にらみ合う二人の間にいきなり割り込み、「わしは少年補導員じゃ、またやっとるんか。ちょっと付いてこい」と言い、なんと僕には一瞥もくれず、相手の〇高校の生徒だけを拉致していったのである。

拍子抜けした。と同時に、学院生と〇高生のトラブルを見て、事の経緯を何一つ訊くことなく一方的に〇高校生に非があると断ずる補導員の偏見に、やはりそうかという複雑な思いがあった。

そして、それよりもなによりもO君たちの友情が心にしみた。忘れられない思い出である。

拙稿をここまで書き進めて、今更ながら実感することがある。ここに登場してもらったM君もT君もすでに故人なのだ。改めて名簿をめくれば、多くの同級生が亡くなってしまったことが知れる。喜寿ともなれば然もありなん。驚きはない、深い感慨があるばかりだ。・・合掌。

僕とていつ死んでもおかしくない大病持ちである。

わが来し方を振りかえれば、煩悩にまみれ、恥多き人生ではあった。しかし今の心境たるや、「あー、面白かった(吉田拓郎の最終アルバムの銘)」の一語に尽きる。ありがたいことだ。屈託はない。いつ迎えが来てもうろたえず、静かに逝くだろうと思う。

「死ぬる時節には死ぬがよく候 良寛」

願わくは余生の日々も、少しでも面白い充実した一日一日にしたいものだ。

「風はきよし月はさやけしいざともに踊り明かさむ老いの名残りに 良寛」


# by ohchi-ishihara | 2025-12-24 16:32 | 徒然なるままに

悠山亭日記10 「石見冠山」と「結び山」

 (邑智病院だより57号から転載)

みなさん、新しい本館棟の屋上に上がってみられましたか?診療時間内であればどなたでも上がることができます。屋上からは於保知(おおち)盆地の景観をぐるりと見渡すことができます。

なんといっても一番に目を引くのは、東に気高く聳える石見冠山(いわみかんざん)863m、そして盆地を挟んで西側に、臥牛の如くでーんと対座するのが原山(はらやま)888mです。盆地の北側を縁取るのは、西から智河原山、熊が垰、京太郎山、結び山、萩原山、向歯無山と、海抜600800mの山々が連なり、東端は断魚渓へと落ち込んでいます。これらの山々のうち、「石見冠山」と「結び山」について、見聞きし、あるいは学んだことを記します。

石見冠山

「冠山」を「かんむりやま」ではなく「かんざん」と読ませる例はまれです。「かんむりやま」は中国地方西部には多い山名なので、登山関係の書籍などでは所在地名を接頭させて、安芸冠山、湯来冠山、可部冠山などと区別しています。「かんざん」と読ませるのも、混同を避けるためでしょうか。地域の伝統や伝承を踏まえた山名ではなさそうです。

江戸期の文書「石見名所方角図(安永3年)」には「冠山」は「不可志山(ふかしのやま)」とあります。昭和30年に誕生した旧石見町の町民歌では「ふかしのみ山」と歌われていました。冠山に源を発し断魚渓に合流する渓流は深篠川(ふかしのがわ)といいます。

一方、桑原良敏著「西中国山地」では「石見冠山」について、「石見外記(文政3年)に『カウムリ山』と記され、島根県誌(大正12年)では『冠山』に『コウブリヤマ』とルビが振ってある」と記載されています。桑原氏によれば、カウムリ、コウブリなどいずれも神様の被り物を意味するそうです。

20年ほど前に、地元の古老に聞いた話では「『冠山』は本来『神守山』と書き『カウムリヤマ』と読むのであり、神守山はこの盆地の鎮守様、氏神様の降臨のための依り代」とのことでした。神奈備信仰の山だったのでしょう。この古老はすでに故人ですが、民俗学や地域の伝承に詳しい方で、地域にまつわる多くのことを教えてもらいました。

日貫生まれの私は、父にこの山の名を「こうもり山」と教わりました。子供のころから、この山の居住まいにはただならぬものを覚え、垰の原を超すたびに魅入られておりました。

還暦前に帰郷したのを機に、この山を見晴らせる土地を求めて草庵を建てました。地鎮祭では神主さんが冠山に向いて深く頭を下げ、「オー」と唸り声をあげて「降神の儀」を執り行われたのであります。私は「ああ、やはり冠山はそういう山なのだ」と感動しました。

結び山

盆地の北側を縁取る山並み(北山)のなかほどに「結び山」があります。名の由来は、「おむすび」に似た山容からだとばかり思っていました。ところが、先の同じ古老に聞いた話は全く別の興味深いものでした。「結び山」の名の由来は以下のようです。

この盆地の人々にとって、北山はこの世(此岸)とあの世(彼岸)の境界なのです。亡くなると、北山の向こう側へ行くのです。その北山のほぼ中ほどに鎮座するのが「結び山」で、この山はあの世とこの世を「結ぶ山」なのだそうです。結び山のふもとには町営の火葬場「水晶苑」があるのですが、なるほど、納得です。この施設の近くにお住いの知人に伺った話では、この施設ができるずっと以前から、この場所は荼毘所だったそうです。

    なむあみだ荼毘は狭霧に結び山  悠山

      ↓結び山                        ↓石見冠山

悠山亭日記10 「石見冠山」と「結び山」_d0132664_09445099.jpg


# by ohchi-ishihara | 2025-10-24 09:54 | 悠山亭日記

悠山亭日記9 邑智歳時記2

邑智病院便り56号から転載
薫風の候、心浮き立つ季節になってまいりました。皆さん、歩いておられますでしょうか。心と体の健康のためには、歩くのがなによりであります。

勤めや耕作をリタイアされ、動く機会が少なくなった方は特に、一日八千歩(厚労省身体活動運動ガイドライン)、それが無理ならできる範囲で、しっかり歩きましょう。ごろごろしてばかりいると要介護、認知症へとまっしぐらですぞ。

私もほぼ毎日歩いております。ノルデイックのポールを持って歩けば、楽しさ倍増、飽きるということがありません。

四季折々の風景や草花に(いや)されながら歩いていると、なにやら俳句のようなものができてくる、それもまた一興なのであります。

如月

久方(ひさかた)の冬晴れなれや(からす)がかあ  悠山

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               矢上大畑谷


弥生

名残り雪ひとひら()せて三分咲き  悠山

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               悠山亭


卯月

チューリップ()まで(めか)してなんとする  悠山

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               悠山亭


文月

好日(こうじつ)初穂(はつほ)()もる野良(のら)の人  悠山

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             矢上力沢谷


葉月

七重(ななえ)八重(やえ)(やま)(なみ)青しわれは喜寿(きじゅ)  悠山

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昨年の夏、西日本最高峰(いし)鎚山(づちさん)で喜寿を迎えました。頂上にたどり着いて振り返れば、連綿と続く山脈(やまなみ)が、わが人生の来し方に重なります。長かったような短かったような。

             石鎚山頂にて

翌朝は御来迎(ブロッケン)に出会え、ありがたい祝福を頂きました。

いまここぞ滝雲に立つ御来迎(ごらいごう)  悠山

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             石鎚山頂上にて


# by ohchi-ishihara | 2025-08-14 16:19 | 悠山亭日記

石原晋 名誉院長のブログ


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