人気ブログランキング | 話題のタグを見る

そば喰いの哲学

 私は蕎麦が好きです。全国どこへ出張しても、遊びに行っても、「まじめな蕎麦屋」はないか、と周辺をウロウロしてしまいます。さすがにうどん文化が席巻する四国では探しませんが・・。
 というわけで、蕎麦についての自説を少々披瀝したいと思います。次回めしあがる蕎麦の味わいが僅かでも深まれば、望外の喜びというものです。
 「そば喰いの哲学」というタイトルは、故 石川文康先生の名著「そば打ちの哲学(ちくま文庫、2013年)」にあやからせてもらいました。

そば喰いの哲学_d0132664_12494865.jpg 















 行きつけの蕎麦屋に出かけるときも心弾むものがあるが、見知らぬ土地で、ウロウロ探し回った挙句に、あるいは通りがかりに偶然、まじめそうな蕎麦屋を見つけたときは心がときめく。

 いかにも蕎麦屋にふさわしい和風の瀟洒な佇まい、玄関は打ち水され、きれいに洗濯された暖簾に、屋号のほかには「手打ちそば」とだけ書かれている。店内に入ると、粉ひき場や打ち場はどこにあるのだろうと一渡り見まわす。ジャズや和風の寂びた調べなどが控えめに流れているのは好ましい。BGMなどなくて、せせらぎの音や、野鳥のさえずりなどが聞こえてくるのはさらによい。テレビは無用だ。店内の装飾は簡素なのがよい。一輪刺しの可憐な花がさりげなく窓際などに置かれているのは素敵だ。すでに食事中の先客があれば、そしてその客が食べているのが「ざるそば」であれば、どんな蕎麦かとつい盗み見てしまう。そして、おもむろにうながされた席に着く。厨房に目をやり、店主の項が清潔に刈り上げられ、糊のきいた真っ白な着衣を纏っているのが目に留まれば嬉しくなってしまう。
 このあたりですでに、この蕎麦屋が「あたり」か「はずれ」かほぼ解ってしまう。はずれだ!と気づいても、いまさら店から出るのはどうにも気まずいから、しぶしぶ口に合わない蕎麦を食べる羽目になる。ところが、店内の雰囲気から「はずれ」という印象だったのに反して、予想外にうまい蕎麦を供されたりすることもあって、うーん、修業が足りんなあ、と反省することもある。

 席につくとメニューとそば茶が運ばれてくる。「やはりそば茶だ」と安堵する。注文するのはざるそば(もりそば)に決まっているから、メニューでチェックするのは、ざるそばの内容だけである。メニューはざるそばが主役で、あとはシンプルであるほど好ましい。禁忌は「うどん」だ。うどんも蕎麦も同じ釜で茹でて出す店は論外だ。うどん屋はうどん屋、蕎麦屋は蕎麦屋でなければいけない。

 さて、メニューに、単に「ざるそば」と記載があれば迷わずそれを一枚所望する。一方、「ざるそば」の項に何種類か書かれていればじっくり読む。更科(一番粉)、全粒粉、挽きぐるみ(殻ごと挽いた粉)のいずれであるか、二八か生粉打ち(十割)かなど。それにソバの実の産地が書かれている場合もある。後者の場合も基本的にあまり迷わない。私の好みは、粗挽きの全粒粉(一番粉、二番粉、三番粉のブレンド)を二八(小麦粉2割、そば粉8割)で打ったもの、それもできれば地元産の実で、というものである。
 メニューに十割がある場合は、二枚目以降に所望する。十割そばは、味、香りが強く、コシは弱めだ。二八はその逆である。通常、一枚目を食べるときは腹が減っているから、味や香りに敏感なので、二八で十分味わい深い。むしろ、一枚目は、コシやのど越しを楽しみながら一気に啜り込みたいのである。逆に、先に十割を食べてしまうと、その後で食べる二八は淡泊すぎて物足りない。
 そのことに加え、二八のほうを先に食べるもう一つの理由がある。まじめな蕎麦屋であれば、二八そばに「はずれ」は少ない。しかし、十割そばは出来不出来のムラがあって、同じ店の、同じ大将の手による蕎麦でも、「あれっ、今日のはちょっと・・」ということがままあるのだ。だから、一枚目は「はずれ」の確率の低い二八を頼むのである。

 まじめな雰囲気のただよう蕎麦屋であれば、期待を膨らませながら待つ間も楽しいものだ。待つことしばし、私の前にそばつゆと薬味が置かれる。まじめな蕎麦屋は薬味も美しい。美しいわさびやネギはうまい蕎麦に不可欠だ。店によっては、わさびとサメ革のおろし板が差し出され、自分で擦るというのがある。筆をとる前に墨を擦りながら心を鎮めるに似て、待つ時間を有意義にしてくれる。新鮮なネギを、鋭利に研ぎあげた包丁で手際よく仕上たことをうかがわせるその美しさも、そばへの期待感を高める。また、そば猪口にも店主のこだわりがあるもので、そのこだわりに思いを寄せるのも楽しい。その猪口に箸先を浸して、つゆを一滴舐めてみる。舐めたつゆに感動があれば、そのあと来るべきそばへの期待もさらに一層膨らむ。こうして主役(そば)の登場を待つ間に、脇役たちによる様々な演出によって、私のテンションは次第に高揚していくのである。だから脇役といえども、それらのどこかに手抜きを感じれば、気持ちが少なからず萎えてしまうのだ。

 薬味やつゆとそばを同時に出さないのは(あらかじめ出しておくのは)、おそらく茹で上げたそばをすかさず冷水で絞め、絞まるや否や一切他の工程を省いて、ただちに客のもとへ運ぶためであろう。であるから、客の側も、運ばれて来るや否やただちに食べ始め、そばが伸び始める前に食べ終わるよう努めるべきではある。しかし、私の場合、その前に5秒ほど鑑賞するための時間が要るのである。そばが眼前に置かれたら、まず居住まいを正し、坐っている席が畳の場合であれば、胡坐を正座に整え、5秒間ほど鑑賞する。見た目の美しさは、そばの重要な要素だ。ムラのない太さ(太さのムラは茹でムラにつながる)と長さ(そば八寸といわれ24cmに揃っているのがよい)。粗挽き独特のざらつきのある光沢とツヤ。のっぺりではない適度な縮れ。エッジの効いた角。そして、手抜きのない盛り付け。これらすべてが合わさって醸し出される美しさを5秒だけ鑑賞するのは、そばを味わうことの重要な一部なのである。これから喰うことになるそばの味は、見た目でほぼ予測できる。

 まず、つゆを着けずに一口だけ食べてみる。そして味、香り、コシをゆっくり確かめる。そして見た目で予想したとおりであることに納得する。あとは伸び始める前に、急いで食べきらなければならない。連れがいても食べ終わるまでしゃべるのは論外だ。箸でつまんだ一口分の下三分の一ほどをつゆにつけ、一気にずるずるっと啜りこむ。このとき「そば八寸」であることが重要な意味を持つ。

 標準的な肺活量の成人が、無理なく啜り込むことができるという点で、24cmという長さは絶妙なのだ。これ以上長ければ途中で噛み切るか、あるいは讃岐うどん(時に70cmのものもある)流に、咬まずに飲み込むしかない。讃岐うどんは「喉で喰う」というからそれでよいのだろうが、ソバの場合は咬んでの味わいも不可欠なのだ。ならば啜らなければよいかといえば、それは絶対にダメなのである。「音を立てて啜る」ことで乱気流が生じ、つゆが麺に絡んで馴染むのである。さらに、そばを啜り込む吸気が鼻腔へも拡散し、味と同時に、香りも広がるのである。

 こうして一気に食べ終わった、まさにそのタイミングで熱いそば湯を供されると、本当にうれしい。いっぱしのそば通と認めてくれているような気がするのだ。

 おそらく、まじめな蕎麦屋は、しょっちゅう箸を止めては、おしゃべりしながら30分もかけてだらだらと、伸びたそばでも平気で食べるいい加減な客たちをもてなしながら、一方で、いっぱしのそば通が来てくれるのを密かに心待ちにしているに違いない。
 店主は厨房で茹でたり盛ったりに集中しながらも、暖簾をくぐって入ってくる客の気配をそれとなく感じとっているのだ。おっ、この客は店に入るなり店内をゆっくり見渡している、おっ、石臼に目をとめたなこいつ、注文はメニューも見ずに「ざる一枚」か、などと、厨房で忙しくしながらも、伝わる気配から客の品定めをしているのである。客がソバを食べ始めると、ずるずるっというまじめなそば喰いの音も聞こえてくる。この客は、わしがまじめに打ったそばをまじめに食っている。店主はそう思っているのではないか・・。そば湯を供されるタイミングが絶妙であると、つい勝手にそういう風に感じてしまうのである。そのそば湯が熱く、程よいとろみを持っていれば、なおさらである。
 相当まじめな蕎麦屋でも、忙しい昼時など、店主の気配りがそば湯にまでまわらないこともある。つい女将さんや店員任せにされたそば湯が、食べている最中に運ばれたり、冷めかけていたりすることがある。これには相当がっかりする。折角まじめに打たれたおいしいそばも台無しだ。

 私の評価尺度によれば、「まじめな蕎麦屋」の上に、「良い蕎麦屋」というのがある。引き立て、打ち立て、茹で立ての全行程および、そばつゆ、薬味、器、これらすべてに込められた気合が伝わってくるのがまじめな蕎麦屋だ。一方、良い蕎麦屋とはなにか。それは女将さんや店員が店主の打つそばに誇りを持ち、気合を共有していると感じさせる蕎麦屋である。

 ある行きつけの蕎麦屋がいつになく立て込んでいたときのことだ。気のいいおばさんの店員が私に供されるべきそばを私のもとへ運んでいる。と、その途中で、別の客がそのおばさんを呼び止めた。するとなんと、あろうことか、おばさんは、私のためのそばを持ったまま立ち話を始めたのである。「ああっ、ああっ、伸びてしまうではないか」。私は気が気ではなかった。案の定、私の前に置かれたそばは少し緩んでしまっていた。

 別の、初めて入った店でのこと。客が、メニューに書かれた「生粉打ち(きこうち)」というのはなにか、と女将らしき店員に聞いたのだ。するとその店員は「それは大将に聞かないとわからないけど、大将は今手が離せなくて・・」などという。店員がメニューに書かれたことも説明できないのでは、どんなうまいそばを供されても、がっかりだ。これらはむろん、「良い蕎麦屋」ではない。

 では「良い蕎麦屋」とはいかようなものか。
 旅先で、偶然見つけたまじめそうな蕎麦屋に入った。畑の中の古民家風のすばらしい佇まいの店だ。メニューには「二八」と「十割」があって、どちらにしようか少し迷っていると、三十過ぎのかわいらしい女将が「私はうちの十割が大好きです。十割なのに宅のはコシもあるんですよ」と勧めるのだ。亭主が打つそばに対する誇りを通り越して、まぶしいほどの夫婦愛がこぼれ落ちている。この十割そばは確かに絶品であった。拙宅からは何時間もかかる遠方だが、その後も何度も通っている。もちろんそのソバを食べに通うのだ。女将に会いに行くのではない。

 こんないい話もある。この店もずいぶん遠いのだが、九州方面に出かけるときはその途中なので、店が開いている時間帯なら必ず寄り道をしていく。というよりも、開店している時間帯にそのあたりを通るよう旅程を計画するのである。供されるのは、私の愛する全粒粉で打った粗挽きソバだ。美しく、味わいの深いそばだ。だがこの店で素晴らしいのはそばだけではない。つゆが只者ではないのである。私が食べた蕎麦屋の中で、つゆの旨さは一番かもしれない。口数の少ない、決して愛想のよいとはいえない女将に「つゆが絶品ですなあ」と話しかけると、途端に顔がほころんで「つゆは私に任せてもらってるんです。枕崎の鰹節を粗く削って・・・、醤油は柳井の〇〇さんから・・・それらを合わせて・・湯煎したあと一晩寝かせて・・」と熱心な説明がはじまった。つゆに懸ける気合と手間と、素材の贅沢さを聞けば、このつゆの旨さもさもありなんと納得がいくのであった。当然、女将のつゆと店主の打つそばとの相性はすばらしく、遠方であるのに、その後何度も暖簾をくぐることになるのである。当然この店は「良い蕎麦屋」、「すばらしく良い蕎麦屋」の範疇に入るのである。

 話をもとに戻そう。
 まじめな蕎麦屋は、多くのいい加減な客をもてなしながらも、いっぱしのそば通が来てくれるのを密かに心待ちにしているに違いない、という話のつづきである。
 さて私は、まじめに打たれたそばをずるずるっと軽快な音をたてながら、まじめに食べ終わった。タイミングよく出された湯気の立ち上る熱いそば湯をいただきながら、店員を呼び止め、わざと少し大きめの声で「ざるをもう一枚ください」という。と・・その時だ。店主が少しだけ暖簾をめくって、ちらっとこちらを一瞬、見た。やはりそうだ。客の品定めをしている。いっぱしのそば通か?を伺っているのだ。

 やがて二枚目が運ばれてくる。いつも不思議に思うのだが、一枚目よりも二枚目の方が、美味いのだ。見た目も、より美しいことが多い。このことについての私の解釈はこうだ。この客の、入店時からこの時点までのふるまいから、店主は「これはそばにうるさい客のようだ、もう少し気合をいれるか・・」と茹で加減や盛り付けに一層まじめな配慮がなされるのではないかという解釈である。

 多くの場合、まじめな蕎麦屋には「大盛り」というメニューがない。あっても、例えば私の行きつけのある店では、大盛りを頼むと、まず「並み盛り」が出され、それを食べ終わる頃に小皿に盛った残りが供される、という具合だ。むろん、伸びないうちに食べて欲しい故の小細工なのだ。同じ理由から、まじめな蕎麦屋のざるそばは往々にして盛りが少なめである。なので、三枚目はおろか腹具合によっては四枚目を食べることもさほど無理なことではない。もちろん、美味ければの話だが。

 さて、私は一枚目と同様に、休む間もなくまじめに二枚目を食べ終わった。そして店員を呼び止めてこう言ったのだ。「ざるをもう一枚頼みます」。でも、さきほどとは違って声の大きさはふつうである。今度は店主は十分に聞き耳を立てているに違いないからである。店主は「二枚目を食べ終わったな、さあて、三枚目・・とくるかな」と構えていたのである。その証拠に、私が「ざるをもう一枚」といったとたん、ついに店主は暖簾をはらって出てきたのである。そして「ありがとうございます。お口に会いましたか」とこうおっしゃるではないか。
 こうなるともう、なんというか、まじめな蕎麦屋とまじめなそば喰いとのすばらしい出会いの成立なのである。三枚目を頼む「ざるをもう一枚」の一声は、少し大げさかもしれないが、片思いの女性に「好きだ」というに似ている。要するに「告白」である。私は店主のそばに負けました。好きです。というのと同義であるのだ。だから店主は厨房から出てきたのである。「ざるをもう一枚」の声を聞いた店主の喜びと、店主を暖簾のこちらへ引き出した客の喜びが、通う瞬間である。こうしてまた、なじみの蕎麦屋ができるのである。

 店主とのこういうやりとりこそ、まじめな蕎麦屋の大きな楽しみである。であるから、はやりすぎている店や時間帯は敬遠することになる。折角みつけたすばらしい「良い蕎麦屋」が、あまりに暇そうであるのも不安で気をもむものだが、逆に、次第に評判がひろがり、玄関前で記名して待たされるほど繁盛するようになると、「好きだ」という思いも急速に冷めてしまうのである。
そば喰いの哲学_d0132664_12522378.jpg                                        平成26年8月

by ohchi-ishihara | 2014-08-25 12:55 | そば談義

石原晋 名誉院長のブログ


by ohchi-ishihara